公文っ子 おさしみちゃんの回想日記
最近、何をやっても続かない。
自炊、ジム、note、お花生活、、、
手を出しては諦め、また何かに惹かれて手を出して。
最近は英会話を始めた。
会社の福利厚生?的なやつで、週一英会話に参加している。
そんな私だが、公文は幼稚園から高校まで通っていた。
高校生の時点で、"10年続けてきたことがある"と言えるのは結構自信になっていた。
といっても、十数年毎日まじめにやっていたわけでもない。
小学生の頃こそ毎日ちゃんと宿題していたものの、中高に上がってからは部活だの学校の課題だのを言い訳にしてサボる日もあった。
それでも続けてこられたのは、いつでも待ってるよ〜と言ってくれた先生の存在が大きかったと思う。
先生は幼馴染のおばあちゃんにあたる人で、そもそも私が公文に入会したのも そのご縁があったからだ。
公文は教室の先生によってやり方や雰囲気が違い、私はそのアットホームな空気が大好きだった。
畳が敷かれた古い公民館に、低めの長机をたくさん並べて。
壁沿いにたくさんの絵本が詰まった本棚と、教材の山。
公民館の前には大きな金木犀のある公園があって、裏にはメンチカツの美味しい精肉店があった。
我が家では「早く終わった方は公園でメンチカツを食べながら、もう片方を待つ」というルールがあったので 私と妹は競い合いながらいつもプリントをこなしていた。
まあ、8割がた妹の勝利だったけれど。
たまに食べられるメンチカツは絶品だった。
100円を握りしめて少しガタつく引き戸を開けると、おじちゃんかおばちゃんがいらっしゃい、と声をかけてくれる。
店内の、お肉を買いに来た主婦さんたちに混ざってしばらく待っていると、お釣りと共に 黄緑色の紙で包んだメンチカツが渡される。
揚げたての温もりを手に感じながら、表の公園まで走る。
塗装の剥げたブランコに座り、一息。
黄緑色の包み紙をそっと開けると、ほかっと湯気が漂う。
じゅんわりと滲み出す肉汁にあちっと言いながら、玉ねぎの甘みとお肉とサクサクの衣を噛み締める。
まあるい青空が人気のない公園をすっぽり包み込んで、世界に私しかいないように思えたのを、今でも覚えている。
中学にあがると部活が始まり、公文に着くのも遅い時間になったのでメンチカツ制度はなくなった。
教材も難しくなったのでなかなか課題が終わらず、一番最後まで居残ることもあった。
公文は、その日の分と宿題のプリントが全部100点になるまで帰れない。
私はとにかくケアレスミスが減らなくて、直しの直しの直しの直し…と数学の途中式とひたすら睨めっこしていた。
帰るのが一番最後になった日は、先生と二人で長机を片付け、戸締まりして、先生が「送ってってあげるからお母さんに電話しなさい」と携帯電話を貸してくれ、ちょっと緊張しながら私は助手席に座り、すっかり暗くなった夜道を二人プチドライブしながら帰るのだった。
高校に上がると、ますます公文に顔を出す頻度は少なくなった。
それでも、憧れの女子校の制服を着て、私はたまに先生にお話しに行った。
いつだったか、教室がお引越しするとのお知らせがあった。
先生が変わります。新しい先生と、新しい教室で学んでください。
母が言うには、先生が体を悪くし、教室を続けられないので先生を引退するらしかった。
先生はとってもパワフルな人だった。
私の祖母は持病を抱えていて 走ったり大きな荷物を持ったりできないのだけれど、自分の祖母よりも歳上なのに 教室の机も運んじゃうし、階段もタンタンタンッといつも駆け上がってくる先生が 私には少し眩しかった。
勿論自分の祖母のことも大好きだけれど、そんな先生の孫である幼馴染のみいちゃんがちょっと羨ましかったりしていた。
みいちゃんとは別々の高校に行ったので、公文で本当にたまに会う以外は話すこともなくなっていた。
母も、昔のようにみいちゃんママとしょっちゅう話しているわけではなさそうだった。
だから先生の病気のことについて、周りにとやかく説明を求めるのは憚られた。
それに、本当に正直なことをいうと 私は自分の高校生活に精一杯で、気にはかかるものの日々の生活に流されていた。
新しい先生はとても優しく穏やかな人で、私がたまに行くと 学校もあるのにいつもお疲れ様ねえ、と笑って話しかけてくれた。
高校2年生の秋になり、私は公文を辞めて、予備校に通い始めた。
画面の向こうの講師の話を聞くのは悪くなかった。
マイペースに教材を進めるのが得意な私には、お喋りな塾長も大して干渉してこなかった。
予備校では淡々と映像授業をこなし、テスト期間には友達と空き教室に集まって勉強する。
そんな生活が続いた、高校3年生の夏のことだった。
土曜日だっただろうか。
私は母と二人で家にいた。
母が突然、「おさしみちゃん、ちょっとそこ座って」というので 真面目な話なんだろうなあと思い私は母の目の前に座った。
「S先生がね、公文お休みしてたでしょ。ずっとご病気で、入院してたみたいなんだけど、先日亡くなったの」
予想もしなかったその言葉に、私は静かに息を呑んだ。
「お母さんもついこの前まで知らなくてね。お通夜なんかも小規模でやるみたいだから、参加できないのだけれど。色々落ち着いたら、S先生のおうち行ってお話しさせてもらいましょう」
初めて"親しい人を失くす"という経験をした。
けれどそれは余りにも突然で、全く実感が湧かなかった。
母の背後の大きな窓から、キラキラとした木漏れ日が見えた。
言うべき言葉を探したけれど、見当たらなかった。
先生は引退しても、変わらず楽しくやっているんだろうと思っていた。
入院していたのならお見舞いに行きたかった、と私は母に言った。
「これで最後だなって思いながら色んな人に会うのが、辛かったんじゃないかしら」と母は言った。
先生のことを慕う人はたくさんいたのだと思う。
私みたいに、感謝を伝えたかった人がたくさんいたと思う。
家族や周りに負担をかけないようにと、小規模なお別れ会を望んだ先生の気持ちは、その時の私にはまだわからなかった。
それから半年間、私は母の作ってくれたお弁当を持って学校に行き、予備校で映像授業をこなし、模試の成績も着実に伸ばしていった。
受験生は楽しかった。
家族がとても支えてくれていたんだなあと思う。
私は好きな大学に行くために好きなだけ勉強する環境を与えられていた。
"受験生"の身なりをして勉強を頑張っている自分を、誇らしく思えた。
結果は合格だった。
受験番号がずらりと並べられた掲示板を母と見に行き、その足でアパートを契約した。
この街にこれから住むんだなあと、すこんと晴れた春の空を見て思った。
ふらっと入ったカレー屋さんでナンを食べながら、母は「お世話になった人たちにちゃんと連絡した?」と聞いた。
父にも祖父母にも親友にも連絡したし、と思いながら私はうん、と答えた。
母の背後の大きな窓から、アパートの立ち並ぶ学生街が見えた。
スパイスの香りを乗せた空気は、春の陽射しを帯びて暖かかった。
受験が終わったんだなあと思った。
ふいに、先生に会いたいと思った。
母が運転する帰りの車で、私は寝たふりをしながらこっそり泣いた。
もう会えないって、こういうことなんだと思った。
そして、最後だから会いたいと思うことは残される側のエゴでしかないと気づかされた。
先生、私合格したよ。
春から大学生になるんだよ。
受験終わったら会いに行こうと思っていたのに、もう会えないなんて悲しいよ。
けれどもしかしたら、先生が見守ってくれていたから私は受かったのかもしれないなとも思った。
ねえ、そうなんでしょう?あの日、受験会場にいたんでしょう?
私の大好きな先生。
第三のおばあちゃん。いや、第二のお母さんかな。
パワフルでチャーミングな先生が大好きだ。
ずっと尊敬している。
十数年、私という人間の礎を作ってくれた方に、その感謝を直接伝えられなかったのは悲しかったけれど、今でも大事な節目のたびに先生を思い出す。
大学の卒業証書をもらった時、就活の採用通知が来た時、スーツを着て本社のビルで入社式した時。
先生が育ててくれた人間は、
今ではこうやって立派に社会人やってます。
仕事もプライベートも思い通りにいかないこともあるけれど、先生に見られて恥ずかしくないように、英会話続けてみるよ。
私の英語力は、公文に支えられてる。
いつか私に子どもができたら、そんな素敵な先生と出会わせてあげたい。
マイペースな子だったら、きっと公文が合うだろうな。