対話と歩み寄り、相手の尊重
対話を臨んだ結果…
具体的には叶わなかったと
思っていた。
さらに相手側の仲間の中でも
価値観がそれぞれに違い、
違うことに関して
つらさを感じている人が居られると
いうのが伝わってきて
切なかった。
今までの人生の中で
学んできたことを緩やかに繋げながら、
すこしずつ糸口を見つけては
動く毎日。
イチ大人としての疑問、
つらい気持ちを伝えてはいたけど、
それに対して、
イエスも、ノーもなかったのが現実。
文字通りスルー。
ある日…
相手側の発言が少し変わった。
時間の約束事や
基本的な生活リズムへの理解に
不安がわずかに少なくなった。
また懇談会が開かれ、
「活動内容の認識をあらゆる立場の
間で共有できなくて、不安」
とコメントしたら、
「お互いにコミュニケーションを
お願いしたい」
「当たり前を見直したい」
とおっしゃった。
正直びっくりした。
電話をしても、
手紙をだしても、
直接話に言っても、
私の問いにはなんにも
イエスもノーもない日々に
終わりがきた。
前触れなく変化したことに
びっくりした。
なぜか?はっきりはわからない。
直接の言葉では、
何も反応がなかった時間がつらかった。
私に対する言葉と
私の存在を消されているようで
正直つらかった😥
確かに私は外野なんだけど。
でもある人に
「そんなに要求が通ったなら、上出来よ」
と言われた。
価値観が違う人が
歩み寄りということは
こういうこともあり?なのかな。
言葉のやり取りなしの対話?
「嫌われても厳しく言うのが
成長させる秘訣。
期待の裏返しは無視。」
とはっきり仰る。
私とは本当に違うけど、
私が目指すものとは違うけど、
相手には相手のポリシーがある。
確かにそのやり方で
結果は上がってるのかもしれない。
学んだこともあるかもしれない。
対話による解決がしたいのも、
解決案が大事なのではなく、
そのように決まるまでの対話が大切なのも、
私の一方的なやり方。
先方とは「歩み寄りに必要なこと」
が違う。
「言葉のやり取りがない歩み寄り」
「対話がない歩み寄り」
それが私にはなかった感覚だった。
その違いすら受け入れていく
ということが相手を認める一歩なのかと
私は学んだ。
相手にも今までの生きてきた道がある。
表面的な活動が
変化したのだから、
それは歩み寄っていると言えるのかな。
そんなことをふと考えた。
そして、私は何だったのか?
我が子は我が子で
最初は理解ができなかったことを
先生のやり方にココロを流されなくなり、
彼なりに対応するようになった。
好きな音楽の技術、
仲間との連携、
リーダーシップの感覚は
確かに成長している。
私はイチ大人として問題提起を
してきたんだけど、
それは過保護?
我が子が学校に行けないくらい
追い詰められているときは、
私は問題提起しない。
我が子のケアで手一杯。
今回は
過保護じゃなくて、
選挙に行くのと同じように、
意見を出すことで
より良い社会にしたいから動いただけ。
子どもの課題を奪ったわけでもなく、
子どもの成長の機会を奪ったわけでもなく、
社会の課題だと思うこと
目の前の違和感に意見しただけ。
みなさん、どう思うのかな?
この一年間、↓こんな言葉を
よく聞いた?
学校に行かなければいい…
行きたくなければ休んでいいよ…
部活を辞めたらいい…
合わないやり方について行かずに
他にもやり方があるよ…
当事者が聞いてくれなければ
管理職や教育委員会に
言えばいい…
権利者から注意があれば対応は早いよ…
周りからたくさん言われたけど、
違う違う違う😥
大人がそれぞれの考えについて
違いを話し合う姿を見せることが
対話して歩み寄る姿を見せることが
大切じゃないかなと
踏ん張った一年間。
もちろん苦しい本人は
辞めたらいいし、
逃げたらいいし、
第三者に助けてと言えばいいんだよね。
でも第三者の大人が、
それで安心していては
何も伝わらないし
何も変わらない。
そんな日常の山を
アタックした管理人藤田でした…