街の山小屋というコミュニティ
選択肢が増える社会。
情報があふれる社会。
便利なものが生活を助けてくれる社会。
医療が発達した社会。
🏚山小屋のような立ち寄り場所
がいろんなところに欲しい!
山へ登ったときの仲間、
山小屋での思い出が、
この現実の社会で生きている私を
支えてくれているから。
なぜ?
🌿
山に行くとき…
準備は自分でしないと意味がない。
山に入れば…
自分で歩かないと先には進めない。
でも、登山者って…
歩みのペースに対して、
「人それぞれで当たり前」
という感覚の人が多い。
そして、チームで行くときは…
1番ゆっくりなペースにあわせて
計画するのが当たり前だった。
さらに、その人はチームの2番目を歩く。
最初や最後にはしない。
はたまた山の生活は…
ごはん作り、
道確認、
水汲み、
天気読み、
できる人ができることをする。
荷物持ちだって、
均等じゃなくて持てる人が
持てるものを持つ。
そんな風に自分なりに
一生懸命に山を登る人々を
やさしく迎えてくれるのが山小屋。
日常とはちがう山小屋の空間では、
ゆっくりと休むだけでなく、
なぜか熱い話が聞こえることも多い。
同じ山を目指して、
同じ山小屋にいるだけの人々なのに。
育った環境や
生活スタイルも、何もかも違う。
たぶん、山でないと
一生出会わない人もいるくらい。
同じ山に来ただけのメンバー。
そう、今、山小屋で暖かさに包まれている。
生きていることがありがたい。
ゆっくりと深呼吸。
山小屋では、みんな同じ人間だと感じる。
生きていることが大事にされて、
それ以外はみんなありのまま。
だって、お化粧も難しいのが山(私だけ?)✨
山小屋を取り囲む自然もまた、
相手によって変わらないことを感じる。
美しさも厳しさもあるままに。
私は山登りを経験してから
山登りと人生を、
重ね合わせて生きているのかもしれない。
一人でいるときも、
お母さんであるときも、
町内会で活動するときも、
プレーパークでスタッフするときも、
研究補助として働くときも、
私はわたし。
でも現実の社会では…
山小屋みたいに休める場所や、
目的関係なく熱い話ができる場所が
見つけられなくて、不安な時がある。
住む場所が一定ではない私。
子育てや病気で自分が思うように
動けない時を経験した私。
どの選択したらいいのか
悩んでしまう私。
人生でも山登りみたいに
一緒に歩く仲間が必要。
山小屋みたいな場所が必要。
自然の中で自分の存在を
感じる時間が必要。
自分はちっぽけで、
マイペースだけど、
山には登れるって思えたように
生活は楽しいと思いたい。
悩みや道は違っても、
同じ時代を生き、
同じに社会にいる。
壮大な自然に囲まれた山の中で、
生きていることを分かち合えた
山小屋のような場所が
社会の中にも欲しい。
ひとりでは不安な人、
誰かと分かち合いたい人、
ちょっと休みたい人、
そんな人が立ち寄る場所が欲しい。
子どもも大人も、
主婦もサラリーマンも、
先生も建築士も同じように。
私は山小屋女主人みたいな
貫禄はないけれど…
なんかいつでもいる
常連さんみたいに佇みたい。
私の周りでは、
「あの景色いいね」とか
「あんな風になりたいね」とか
「聞いて!僕、こんな夢あるんだ!」とか
お茶を飲みながら誰か話している
雰囲気を作りたい。