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私も死んだ直後に喝を入れてもらいたい
ここ数年、身近な人の死に触れる機会が多くあったように思う。
まず、3年前の父の死。
そして、先日父の父である祖父が亡くなった。92歳の大往生だった。
亡くなる当日まで全介助ではあったけど口からご飯を食べていて、
その日の晩に眠るように亡くなった。死因は老衰。良い死に方だと思う。
父は親より先に死を迎えていて、いわゆる仏の世界でいう「逆縁」というものだ。
祖父は京都の生まれで、「臨済宗」という禅宗のお寺の檀家だった。
祖父の妻(私の祖母)が早くに亡くなっていたこともあり
私が物心つく頃から年忌法要やお盆の法要などが頻繁にあって
祖父の家に集まったりお寺に出向いたりしてお経を聞くことが、1年に1回以上はあった。
祖父が懇意にしていたお寺の和尚さんは私たち兄弟を幼い頃から見ているので、色々知ってくれている。私の学生時代やっていた部活や、どこに就職したか、私の職業、離婚歴。さらには私の娘の年齢や入っている部活動も熟知している。すごい。
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そんな和尚さんが読むお経は基本長くて「早く終わらないかな…」といつも心を無にしながら聞くのだが
そのなかで、好きなお経が2つある。
1つは「白隠禅師坐禅和讃」というお経なのだが
このお経は漢文みたいなお経とは違って日本語で書かれているので、読んでいて何となくストーリーがわかるのだ。
超ざっくりストーリー(意味)を説明すると、「今目の前に起きていることはすべてが、あなたにとって最良なのだよ~」みたいな感じ。
意味を理解するとより好きになるのだが、
私はなんといってもこのお経のリズムと終わり方が好きなのだ。
「当所即(とうしょすなわ)ち蓮華国(れんげこく) 此身即(このみすなわ)ち仏(ほとけ)なり」
と最後の行を和尚さんが読むと、心がフッと軽くなって視界がぱぁっと開けたような、すっきりとした感覚になる。
そして、和尚さんが読むお経で好きなやつ2つ目。
それがタイトルにもある私が死んだときにも読んでもらいたいお経(儀式)だ。
臨済宗では葬儀の最後、「引導」と呼ばれる儀式がある。
その名のとおり、この世に未練なく安らかに浄土へ旅立てるよう、導師(和尚さん)さんがハタキみたいな道具をフリフリ振りながら、「喝ぁ~~~つ!!!」と大声で引導を渡してくれるのだ。
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これは誰にも言ったことがないのだが、
この引導の儀式がはじまるといつも、棺のなかから白装束の死者がするっと出てきて
和尚さんのほうを向き正座し、一礼をする。
そして、和尚さんに背を向け「喝」を入れられるのを待つ姿が見えるのだ。
私霊感全っ然ないけど、不思議とこれだけは見える。父の時も、祖父の時もそうだった。たぶん妄想だけど、妙にリアルな妄想なのだ。
するっと出てくる時の死者の表情は、無。心を無にして、私たちのほうを見向きもせず、これから自分に入れられる喝を待っている。決意を固めているので、後ろは振り向かない。
「喝!」と言ってもらったあとは、背中を向けたままいつの間にか消えている。
長い長いお経によってこの世であった歓びや悲しみをじっくりと癒し、強い言葉で迷いを断ち切り、決意を固めて天への扉をひらく。
不謹慎かもしれないけど、私はこの臨済宗のお葬式で読まれるお経の流れが好きだ。
見送るこちら側も、和尚さんの「喝!」の言葉に、現世で前を向く気持ちを与えてもらっているのかもしれない。
残されたもの達は大切な人の死を悲しみ、思い出に浸り、もっと一緒にいたかったと願う。
そんな思いも大切だけど
死んでしまったものは二度と戻らない。
死んだ本人も、戻りたくても戻れないのだ。
それなら潔く、葬儀の間だけでも行ってらっしゃいと背中を見送りたい。
見送るものの姿勢を、引導の儀式は私たちに教えてくれているのかもしれない。
私も死後、喝を入れてもらえるように
今から徳をいっぱい積むんだ。