ディズニーランドを人を救う場に
私は風邪をひき、在宅勤務をしている。
でも病院に行っているので、コロナではない。
熱も下がり頭の回転も少しは良くなっている。
テレビのニュースを見ていると、心が痛くなり自分も何日間も死ぬのではないかという思いになってしまう。
しかし、ヘルパーさん達が交互に来てくださっているので、あまり暗い顔はできない。
ちっちゃな喜びでも良いから見つけ、会話をするようにしている。
今日の夕ご飯は野菜の煮つけと、ニラの卵とじである。
タケノコは何年振りで買っただろうか。
値段が高いのでいつも唾をゴクリと飲んで我慢して帰ってくる。
やはりタケノコを買ってこればよかったかなと、女々しく考えている。
そういうくだらないことを考えられる余裕があるのは嬉しいことである。
私は8歳まで和寒町北原村というところで両親が農家をやっているところで育った。
家の周りには山菜がたくさんあり、タケノコは特に好きであった。
毎日ニュースはコロナのことばかりで、見たくなくなってしまう。
しかし、今の現状はどうなっているのか知らなくてはならない。
安倍総理大臣が一世帯に2枚の布マスクをくださるという。
ちょっとさみしいですね。
でも中小企業に保障をしなくてはいけない。
私が生きている限り、これからも何か社会を豊かにするアイディアを考えなくてはいけない。
札幌いちご会を始めた42年前はほとんど福祉制度はなかった。
両親が私の世話を全てしていてくれた。
今から思うと、感謝しきれない。
親がいなくなったら、私たちはどうやって生きたらよいのだろうかと考え、いちご会を始めた。
いちご会は言葉だけの運動ではなかった。
地域で一人で暮らすためには何が必要か、アパートを一世帯ずつ借り暮らし始めた。
ボランティアを死ぬ気で集めた。
お金も毎日寝ないで夜中まで「寄附をください」という手紙を書いた。
私は実験という言葉が大好きである。
とくかく思いついたことをやってみる、その結果社会や行政がどう変わってくるのかを考えた。
コロナが流行し始めた時、何回も書くが防護服をヘルパーさんに着ていただき、どこまでケアができるのか実験をやってみたかった。
しかし残念ながら、その実験は遅かった。
千葉県の障がい者施設では職員も障がい者もコロナに侵されている。
どうなっているのか私の目には入ってこない。
全国の施設の職員にその施設に来ていただきたいと知事は呼びかけていたが、どこの施設も職員が足りないので、今はどうしているのだろうか。
ダイヤモンドプリンスに残された人たちを助けるために自衛隊が完全な防御服を着て、コロナにかかっている人といない人に分けたという。
国会中継では、自衛隊の検査した人たちからはまだコロナにうつった人はいないと言っていた。
やはり自衛隊では放射能から逃れるために、普段から性能の良い防御服を研究したり人の接し方を研究しているとのこと。
上手くいったのだと思う。
自衛隊は国と戦い人を殺すためではないということを教えてくれたような気がする。
つねに人々が生きられる実験をするのがこれからの自衛隊の役割ではないだろうか。
私の考えは甘いかもしれないが、人を助けられたプロセスをもっと具体的に発表すべきであろう。
人間は常に楽しみと苦しみを繰り返し生きている。
今はコロナでディズニーランドは機能していない。
日本で感染症が起こった時、あのようなすばらしいレジャーランドをすぐに部屋を区分けし、例えば食堂の壁からベッドが降りてきたり、人工呼吸器が出てきたりして病院のような設備のある人の命を助ける場になることもこれから考えなくてはならないことではないだろうか。
しかし、予算がないと言って無理だろうか。
ディズニーランドの職員はお客様にサービスが徹底している、そのような人たちが今仕事を失っている。
心に喜びを与える教育を受けていたなら、ヘルパーや看護師にも一時的になれるのではないだろうか。
暗闇の中に光をてらし人の命を助けるのは、実験のみである。
ちょっと小山内さん何言ってるの?狂ったの?と言われるかもしれない。
しかし若い人たちの命を大切にするためには、このような試みを考えていかなくては、ならないのではなかろうか。
私は母が死んだら生きていないと思っていた。
しかし今障がい者に対してたくさんの制度があり、母の手がヘルパーさんの手に変わって、私は66歳まで生きられているのである。
人からけなされても、ちょっとおかしなことを言ってみることも大切なことであり、人類を滅ぼさないきっかけになるのかもしれない。
昨日のニュースではアフリカではコロナで何人の人が亡くなっているか数字が出ていないという。
それが続くと世界中に危機が来るという。
きれいな空気はお金では買えない。
政治に頼っていくだけでなく、お金持ちの人が世界の医学界に寄付をしコロナを治す薬の開発費を援助したり、私たちも少しでもいいから寄付をしていかなければいけないのではないかと考える。