「当日パンフレットより」
稽古および公演初日を迎えるにあたりやることがこんなに多かったのかと久しぶりのMODE公演にいささか忙殺されている。昨年、大阪の小劇場で2つ公演をやったのだが、こんなに大変ではなかった。ひとつには作品が新作ではなく、かつて手掛けたことのある「戯曲」の再演だったということがあるだろう。「MODEの原点に還り、戯曲をそのまま上演するのではなく、ゼロからワークショップで立ち上げる……」と銘打ち、稽古を開始した今回、やはり「戯曲」があって上演を目指すのとは全然違うことに今更ながら気付いて、驚いている。時間があっという間に過ぎていくのだ。大好きな稽古後の飲酒もこんなに控えているのにも関わらずだ(ほんとうです)。
しかし、稽古の楽しさは「戯曲」のある時とは全然違っている。もちろん、「戯曲」が立ち上がって舞台化されていくプロセスも楽しいのであるが、やはりそれとは全然別なのである。
等々、このnoteを更新できなかった言い訳をしております。以下は、数日後に迫った初日から劇場で配布するいわゆる「当日パンフレット」に書いた「演出家の独り言・パンフレット版」です。劇場にいらっしゃる観客の皆様に先駆けて、公開いたします。
7年ぶりに東京で公演をやろうと決めたとき、題材はさておき、ワークショップを積重ねて俳優たちの発想や演じ方とじっくり付き合いながら作品を立ち上げたいと思った。もし立ち上がらなければ、それはそれで良しとしようと思った。しっかりと立ち上がる劇というのも勿論面白いのだが、なかなか立ち上がらない、ぐずぐず進行する劇というのもいいのではないか。
多くの場合「筋(プロット)」が劇にとっては大事な要素であり、その良し悪しが劇の面白さを決めるとされている。でも、それはほんとうにそうなのだろうか?私が劇に関わり始めた頃(70年代半ば~80年代)には、劇が「筋」だけで語られない舞台もたくさんあったように記憶している。言わば「イメージの劇」である。それらは主に身体性と美術性により成り立っていたように思う。その頃に比べると最近の劇は「筋」で見せることに偏っているのではないか。まあ、そう思うのは、私が時代の傾向に乗り切れなくなっているからかもしれない。
何を劇的と感じるかは人様々である。ある人が「ドラマチックやなあ」と思う出来事が別の人にとってはそうでもなかったりする。
ナチスドイツに侵略されたポーランドでユダヤ人であったシュルツは、なんとゲシュタポ(秘密国家警察)将校からお抱えの画家として雇われ、その息子の家庭教師もやっていた。この状況は劇的か?
シュルツはゲットー(ユダヤ人居住区)への帰宅途中に市場で配給のパンを受け取った。そこでゲシュタポたちが「野蛮作戦」と名づけて、当たり構わず銃を乱射しているところに出くわす。シュルツは路上で射殺された。これは劇的か?
銃乱射のほんの少し前に中学校の教え子に通りで出会った。その生徒の証言(思い出)が残っている。
「その別離の最後の光景がまるで映画のシーンのように今も目に浮かぶ。小柄な、痩せてしまったシュルツ先生のシルエット、いかにも心細げにゆっくりとした足取りで遠ざかってゆく、それと共に、痛々しさに身を固くしながら立ち尽くす僕自身の姿……僕は感じた……親愛な友人でもある先生とはもう二度と会えないのだと」(ヴロツワフ音楽大学教授グルスキの回想より) これは劇的か?
では、シュルツが描いた絵や版画、短編小説の世界とその内容は劇的か?今日の舞台でその一端に触れていただくのだが、きわめて狭い世界、小さな小さな物語ばかりなのだ。20世紀前半の大きな物語に巻きまれていたシュルツはなぜ、こんなにも「狭い世界の小さな物語」ばかりを描いたのか。繰り返し描かれるのは、家族内の出来事、街路の風景、夜空の光が変化する様子、活き活きと振る舞う女性、その女たちの足許に這いつくばる男たち。
現ウクライナ領のドロホビチに生まれ、そこで死んだシュルツ。その死からおよそ80年。多くのユダヤ人たちがイスラエルに渡り、国家を作った。今、ウクライナでもイスラエルやパレスチナでも戦争により毎日人が死んでいるという現実。もし、シュルツが生きていて、この状況を目の当たりしても、やはり家族のこと、女中アデラのこと、鳥やザリガニになってしまう父のこと書くのだろうか?
私はやはりそれらのことを書くのではないかと思う。シュルツにとっては、それが劇的なことだったのではないか。シュルツが生きた時代と状況を想像しながらも、我々は徹底して「狭い世界の小さな物語」に拘りながら芝居作りを追求したいと考えている。
松本修 (MODE主催 演出)