追悼
お前の感傷なんざ知らんと言われるのを承知で書く、今回の記事です。
ミッシェル・ガン・エレファントのチバユウスケさんの訃報に、少なからぬショックを受けている。
20代の頃、とにかくミッシェルが大好きで、とにかく聴きまくった。私は26歳までサラリーマンだったが、毎朝会社に行くのが嫌で嫌でしょうがなかった。会社に問題があったわけではなく、単に相性の話に過ぎないが、ともかく出社の朝の鬱屈を晴らしてくれたのが、MDウォークマン(!)から流れるミッシェルだった。
最初に知ったのは、21歳の頃。カウントダウンTVというテレビ番組を何気なく観ていたら、ヒット曲の順位を発表するその番組の30位くらいに、ミッシェルの「ゲット・アップ・ルーシー」という曲がランクインしていた。トップ10には入らないけれど、30位前後を行ったり来たりしながら、その曲は何週もランクインしていたように思う。この番組では、ゲストの歌唱を除けば、曲が流れる時間は十秒程度。でも、その十秒だけで、「かっこいいな」と頭の隅に引っ掛かった。
ちょうどその頃、帰省する用事があった。実家に戻り、何の用事だったかは覚えていないが、父親の運転する車に乗って、どこかに向かうことになった。車中、父親と会話しながら、「ゲット・アップ・ルーシー」のことをふと思い出した。目的地の途中に、CDショップがあることは知っていた。「帰りにあの店寄ってくれん?」と父親に頼み、そのCDショップで、マキシシングル(!)の「ゲット・アップ・ルーシー」を買った。家に帰るまで我慢できず、車の中でCDをかけさせてもらった。イントロが流れ出して、「そうそう、これだ」と痺れた。チバユウスケの声を聴き、さらに撃ち抜かれた。が、隣に父親がいるので、その興奮は内に抑え込んだ。
「あんまり綺麗な声じゃないのう」と、ハンドルを握る父親がいった。
「それがいいんだよ」と反論しようかとも思ったが、そんなことよりも曲がかっこよすぎて、それに浸っていたくて、「うん、まあ」とだけ返しておいた。
「ゲット・アップ・ルーシー」にやられて、私はミッシェルの虜になった。リリースされたミッシェルの曲はすべて聴き、ミッシェルが特集された音楽雑誌はすべて読んだ。
t.A.T.uのMステドタキャン事件も、たまたまリアルタイムで観ていて、実に痛快だった。
『チキン・ゾンビーズ』というアルバムを聴いて、「今後世の中に、これ以上かっこいいアルバムが生まれることはあるのか?」と度肝を抜かれたら、そのあとに『ギヤ・ブルーズ』がリリースされて、あまりのかっこよさに笑った。生まれたね、ちゃんと。
『チキン・ゾンビーズ』に関していうと、当時私は大学生で、通うキャンパスが京都の田舎にあった。駅から大学までは田んぼがたくさんあり、その田んぼの脇に、『チキン・ゾンビーズ』を宣伝する巨大な看板が建っていて、ちょっと異様だったのを思い出す。その看板を横目に大学に行き、授業にはあまり出ず、コントや漫才を書いていたら、今みたいな感じになりました。(そーいや、新喜劇の吉田裕くんも、高校の時、バンドを組んで、ミッシェルのコピーをしたことがあるっていってたな)
楽曲もさることながら、ミッシェルはファッションも決まっていた。黒のモッズスーツが、ひたすら似合っていた。若気の至りで、私も「洋服の並木」でスーツを作ってもらったことがある。気恥ずかしくて、数えるほどしか着なかったけど。『ロデオ・タンデム・ビート・スペクター』のブックレットの中で、ウエノコウジさんがかけていたサングラスも渋くて、似たようなやつを買ったけど、これはもっと気恥ずかしくて一回しかかけなかった。
ミッシェル解散後も、チバユウスケはいろんなバンドやソロプロジェクトでさまざまな曲を多作した。「私は寡作の天才を認めない」とは作家の百田尚樹さんの言葉だが、その伝でいっても、チバユウスケは天才だったのだろう。55歳は早すぎる旅立ちだけど、人生が二回あっても作りきれないほどの楽曲群を私たちに残してくれた。これからも、聴き続けることだろう。ご冥福をお祈りします。