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夢が教えてくれた「古い皮と新しい皮」

さきほど見た夢はこうだった。


まず私の属する会社の中で、いよいよ建物が古くなり、新しいビルへの移転を考えているという会議がなされていた。

現実に、親会社は東京赤坂にあった自社ビルを売って移転しているので、わが社においてもそうしようとみんなで話をしている。


名のあるA社も、B社も、つい最近まで古くてどうしようもなかったC社ですら、価値観も変えていかないと存続は危ういと、そんな会話ばかりになっている。みんな衣替えをするように古い建物から脱している。だからウチも早くしようよと。


その打ち合わせをしている会議場はかなりデカい。奥の下のホールまで行って話を聞きに行こうとしたら、神奈川県民の三人でもめている。松沢成文元知事と黒岩ゆうじ現知事ともう一人誰だったか議論しつつ、下の観客席まで移動していった。私は加わらなかった。


そこからまた下る階段の先に、扉が開かれており、先月の妃皇子・心茉を火葬した東山霊場で経験したが、遺体を焼く部屋の廊下が見えた。なんでこんなところにそれがあるんだろうと思って、気になってそちらに行ってみた。



そうしたら、ある男性が私を睨んでいた。そこへ勝手に私が侵入してきたのでご立腹の様子だ。

どうやらそこは火葬場で、一度そこに入ったら、儀式が終わらない限り、そこから元の会議場には戻れないらしい。そこで死者を悼み、天理教式で拝まなくてはならないらしい。そういうルールがあるのを私はなぜか知っている。なぜ知っているのかはわからない。だからそこに足を踏み入れてしまった以上、しばらくそこにいなければならないということを察知した。


その葬儀に無関係な私が紛れて入ってしまったので、その男性はかなりお怒りのようだった。とにかくここで拝んでいけという目を私に送ってくる。言葉はないがわかる。



それで、彼は亡くなった人物の遺体を私に見せる。


小さな赤ん坊用の籠にふとんがかぶせられており、その布団を彼はバッと剥いで、亡くなった赤ちゃんをこれ見よがしに見せた。


私はその瞬間泣いた。そしてすぐさまに、なぜかその男性に泣きつき、「私も同じ状況だったんですよ」と、心茉の遺体を思い出し、泣き叫んだのだった。


その叫びをして夢から覚めた。でも私はすっきりしていた。



確か、夢で出てきたのは心茉よりも一、二年幼い赤子だったが、ほぼ自分は同じ状況であったからだ。つい一か月ほど前の話だったから、とっさにそういう行動をとったのかもしれない。


ただ、起きてから思った。この夢の意味を。


どんな意味かというと、「古い皮を早く脱ぎ捨てよ」ということだ。


まず、その葬儀場内に入ったら、ルールに従い、その故人をある特定の宗教の形式で拝まなくてはならない。それが当たり前という社会。誰が決めたわけでもなく、そうなっているから、そうやるのが当たり前だから強制的にさせられるという世界。


これが古い皮だ。


夢の冒頭は、もうこの建物は古いから新しい建物にしないと我々は追いついて行けないとみんなが会議で言っていた。


つまり新しい皮にしないと乗り遅れて、会社がつぶれてしまうという話ばかりをみながしている。


このメッセージだったのだろう。


今度の郡山市長選挙でも、昨日の立候補説明会でよくその雰囲気を感じた。


長く国政与党の立場にあって利権構造に慣れている陣営、長く野党にあって政権を一時は取ったものの信頼を大きく失った陣営と、難癖だけつけて社会批判をする陣営と、この三つはもうその近くを通っただけでその空気を発しているのですぐわかる。


この三つの陣営が発している空気・霊域は、まさに古い皮だ。



ようはサナギから抜け出せないまま、昔のまま存在していて脱皮していない。



ここ近年、このような政治をして、民を苦しめてきた。なんとなくの理念・政策、どこにでもあるような、全くインパクトのない、そんな空気・霊域である。これこそが、脱ぎ捨てなければならないエネルギーの皮だ。


今、新しい皮にしないと、大きな機会の時を逃すことになる。今しかないので、今すぐやれというのがこの夢の警告だ。


まず心の問題で考えてみよう。人は慣性の法則で、今までの風習に流される。流されていつのまにか、誰も気づかないまま地獄に落ちて、市民は全員共倒れになってしまう。


今までと同じようなことをしていては絶対にダメだ。今までの価値観ではダメだ。だから脱ぎ捨てて新たな方法をとる必要がある。


それは政治の世界ではまず経済の仕組みを改めることだ。私の提唱する「腐るお金」「時間と共に減っていく貨幣」は、なかなかすぐには理解しがたい。


しかし、お金の不思議さ・不自然さになんとなく気づいている人は、直感からして思っている人が、この世には多数ある。


自然界のあらゆる物は、必ず朽ちて価値がなくなる。しかし、お金はそうではない。交換機能は便利ではあるが、お金は物と違って貯蓄が可能で、なぜか増殖していく。


モノが減っているのに、お金が増えていけばこの世の自然界のバランスが崩れて、貧富の格差が拡大して、富める者は、架空の富をどんどん増やし、貧しい者はどんどん借金漬けにされていく。


このルールというのは、私たちがなんとなく前からそうだったから、それにみんな従っているに過ぎない。経済学者もそれが当たり前だと思っているから誰もこれまで疑問をもってこなかった。ただ、この方法を続けていけば人類は確実に滅びるだろう。


今から2025年前のイエスキリストの父が1円を持っていたとしよう。その1円を銀行に預けて、金利5%で毎年複利で運用したとすると、2025年の現代では、地球と同じ大きさの金塊が5億個分以上ないといけないという。


こんな不自然な経済システムをなぜ誰もおかしいと言わないのか。


これはルールの問題だけではない。


このルールがあるおかげで、我々はお金を獲得すること自体を目的化して、疑問も抱かずに、毎日あくせく働き、心が失われ、自分のことしか考えない人々が増え、経済社会がそうなっていき、政治の世界ではそれがゆえに一部の権力者がそれを采配しようとする悪政が蔓延しているのだ。


そして地球規模のレベルでは環境問題が生じている。これは世界的な経済システムの歪みが原因だ。


古びた宗教を信じて古い皮のまま、目覚めない人たちもいる。一方で、古い皮を脱いで新しい皮で新たな社会を作っていくために議論する人たちもいるということだ。


だから「新しい皮を理解できる人たち」を郡山市長選挙投票日の4月20日までにどんどん増やして、郡山市の経済社会を刷新し、その誰もが食べていける経済システムが福島県を越えて、日本を越えて、全人類がこれに気づくことをしていきましょう。


それにしても自らの売りである中卒が、放送大学教養学部卒業により消されたかと思ったら、福島民報はちゃんと「都立鷺宮高校中退」と書いてくれまして、感謝します!

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