アルケミスト・ジン
かなり昔の話だ。数ヶ月程、不思議な女性と過ごしていた事がある。名前を名乗らなかったので、彼女を月子さんと呼んでいた。中性的な面立ちに青みがかったショートカット、ロングのワンピース姿が多く、極端に薄い体型の所為かあまり性別を感じさせない。香るか香らないか薄らとしたストラスクガン。一歩間違えれば学生に見える風貌だが、きっと私より年上だろう。
月子さんと会うのは夜だった。仕事が終わり彼女の家へと呼ばれて行く。職場からは電車で一本だったし、その頃の私はと言えば家に帰りたくなかったから、自然と通う頻度が増えていった。呼ばれる事よりも自ら赴く事が増えたし、彼女もまた「おかえり」と出迎えてくれる。三日月を背にしてまっすぐ歩く。雑居ビルの窓に満月が写ったらそのまま真っ直ぐ5分程。眼前が開けた瞬間に大きな満月が見えたらそのまま曲がって、奥まった急な坂をそのまま満月に向かって登って行くと更に奥には狭い階段だ。階段を下って右手にオリオン座が見えたら彼女の家だった。
手土産にはいつもサラダを持って行った。あまり野菜を食べる様子が見られないからだったが、存外のことに喜んでくれる。彼女の部屋で過ごす時間は微睡のようなひと時で、長くは無い滞在時間には映画を1本楽しんだ。小さめのテーブルを二人で囲い、軽めの食事とアルコール。いつも用意してくれるのは月を冠するアルコールだった。だから月子さんと呼んでいたんだと思う。
坂道と階段が多かったが、私はすぐにその街を好きになった。酒を飲んだと言ってもほろ酔いのほの字にも当たらない程度だから、帰り道はちょっとした散歩のようなものだった。少しの時間を過ごした後は、オリオン座に別れを告げ天井に満月を見上げながら、三日月を探して駅へと向かった。季節の移ろいに変わる街並みは、例外なく家の場所をも移してしまった。一度覚えた道のりも、月の形が変わればまた違う地図を描き出すこの街では、案内役のハチワレ猫を見失った瞬間に振り出しへ戻ってしまう。ハチワレ猫は時々達観したような、人のような顔をした。何度も迷子になる私に呆れたのだろうか、ハチワレ猫がそっぽを向いてしまった日は仕方がないと言いながら月子さんが送ってくれた。群青色の夜空だった。