「人の評価を気にしない」という考え方に対する違和感
「人の評価を気にしない」
「人の目を気にしない」
そんな個人主義的な考え方が世の中に出て来ました。
人の目を気にしすぎる故に思ったことが出来なかったり、言えなかったり。窮屈な生活を余儀なくされた結果、ひどい場合にはメンタルに不調をきたす人が増えて来ている最近の事情を踏まえると、世の中にマッチした考え方なんだなと感じます。
しかし一方で、この考え方の持ち出され方に違和感を感じる場面もあります。
人の評価や人の目を気にしないという考え方は、いついかなる場合においても正しいことなのでしょうか?
例えば、①「仕事に行きたくないからといって仕事を休む」ことは良いことでしょうか?悪いことでしょうか?
②「嫌いな同僚だからといって面と向かってはっきり、あなたとは働きたくない」と言うのは良いことでしょうか?悪いことでしょうか?
人の評価や人の目を気にしないという思想のみを考えればこれらは間違っている行為では無いと思いますが、これらはいついかなる状況においても間違っていない行為ではありません。
例えば普段から仕事をいい加減にやっており、そのせいでたくさんの同僚が迷惑被っているシチュエーションでの①はあまり良い行いとは言えませんが、まじめに仕事に取り組み過ぎてメンタルに不調をきたしているようなシチュエーションでの①は心を休めるために良いことだと思います。
同じように自分が間違えているにも関わらず相手がそれを指摘してくるのが嫌だからという理由で発言する②は良いとは言えませんが、いじめのような行為を普段から行ってくる相手に対して発言する②は悪くないと思います。
つまり何が言いたいのかというと、「人の評価を気にしない」や「人の目を気にしない」という言葉は、過度に気にしすぎた結果生きずらさを感じている人の言葉であって、そもそも普段から他人の気持ちなど一切考慮しない、人間関係を自分の身勝手で悪化させるような人に対する免罪符としての言葉ではないということです。
「人の評価を気にしない」「人の目を気にしない」という言葉は、万人に対してかけられるべき言葉ではなく、かけられる対象として該当する人としない人が存在するのです。
しかし最近は「個人の自由」的な思想を売り出す広告が増え、その思想を免罪符に暴走行為を助長させてしまっているケースが増えているような気がします。
SNSやユーチューブで個人の自由をうたい過激な行為を行う人、不必要に和を乱す人、不必要に人を傷つける人、彼らは個人の自由という名のもとに、迷惑行為を自分で肯定しているただのわがままな人に過ぎません。
世の中は白黒、善悪、正誤、右左はっきりしているようで、細かくみると実はグレーで成り立っていることがたくさんあります。
なにか一つの考え方がどんな場面においても正しいというのは、実はあまりありません。
「仕事なんて適当にすればいいんだよ」という言葉は頑張りすぎていっぱいいっぱいになっている人に対してかける言葉であり、そもそもいいかげんで普段から人に迷惑をかけるような人にかける言葉ではありません。
「人の評価を気にしない」という言葉は頑張りすぎている現代人には魔法のような言葉です。
しかしこれがいついかなる状況においても正しい言葉だとは思わないで欲しいのです。
あなたが生きづらさを感じている原因は、実は「人の評価」や「人の目」を気にしなさすぎだからなのかもしれないからです。