死の魅力とは何か 支配と蹂躙
かつての死罪には、罪人の生命を神に捧げるという儀式的な意味があった。キリスト教以前の西洋の刑の歴史を参照すると、水辺での死罪が多かった。アハト刑、森に罪人を放逐し、人とみなさず山狩りする刑。縛り付つけ水に沈め溺死させる刑。絞首刑でも、特定の、精霊が宿るとされる楡の木や、場所を指定して実行され、もし生き残れば、神の許しを得たとして、解放された。自然は脅威、人間の手には到底負えない、神のいる場所とされる。現代でも自然の真っただ中に何の準備もなく、突如として放たれたなら、人はいとも簡単に、指で弾かれて死ぬ蠅のように、無力だ。そうでなくとも、台風や地震で人が死にまくっているではないか。
神に喰われる人間のイメージは、魅力的で現代でも繰り返し利用されるテーマの一つだろう。しかし、描きようによっては非常に陳腐になる。神の存在を人間に都合よく描けば描く程、チープになってしまう。人間の想像し得る神にはどこまで行っても都合のよさが伴うだろう。そういえば、直近見た映画で「DOPE」が面白かった。UFOだと思い、撮影して一獲千金を狙おうという主人公が、UFOがUFOではなく生態不明の人食いの巨大生物だと気が付き闘う。一応、ホラー映画である。この映画の魅力は多々あるのだが、今は神の捕食の話に焦点を当てたい。闘いの中で、最も頼りになると思われた老監督、彼は主人公たちの仲間となり、巨大生物の決定的瞬間をフィルムにとらえるのに熱中する。しかし、合流する以前から彼は自室で肉食獣が獲物を襲い捕食する場面を繰り返し見るなど、不穏な要素が繰り返される。そして、戦闘の中、勝ったと思われた場面で、老監督は、ついに「光だ!」などと言い残し、自ら進んで恍惚としながら、巨大生物に喰われていくのだ。
人間は、自分達が、そして自分が、卑小な存在であると理解している。そんなことを理解しているのは、全ての生き物の中で人間位だろう。この哀れな存在を包み込む上位者に蹂躙されることによって、答え合わせでもしたいのだろうか。それとも生態系の一部にもう一度帰りたいのだろうか。人類はもう人間以前には戻れないことも、理解している。昨今の情勢のように、病気は、人間の命を奪い、支配するが、ある程度制圧可能であり、脅威というには少し弱い。しかし、病に侵食されるというイメージも蠱惑的ではある。
死は、人間にとって、現代に至っても、最もわけのわからないものであり、そえゆえ神と同じく、侵してはいけないのに、魅惑的に見える。死に近づくことに魅力を感じてしまうのも仕方がない。もし目の前に今まさに死のうとしている人間がいたら、どうするだろうか。どのような人物でも人間でありさえすれば、構わない。ただ見るのか、目を背けるのか、どちらにせよ全く無関心ではいられない。見なかったことにしてその場を去ったとしても、思い出すであろう。あれは、何だったのか、と。答えはない。
死を目指して歩きながら、死から目を背ける決まりが、どうやらこの世界にはある。宗教さえ、死を覆い隠すための装置だ。隠されるほどに近づきたくなるのは仕方がない。
処刑の話に戻そう。死を畏れ、罪人に贄の役目をもたせて捧げた民衆たち。そして、贄とされることで、圧倒的な存在に押しつぶされ、死に近づくエロス。拷問もある種の贄の文脈で説明できると思う。拷問は、罪を自白させるためのやむを得ない暴力行使とされているが、現代社会では禁止されているのを見ての通り、その通りではない。ありとあらゆる拷問がある種の嗜好によって生まれ、人間の創意工夫について考えさせられる。罪人はある種の娯楽の贄となり、責め立てられる。神ではなく、個人や、民衆に与えられる贄だ。底無し、終わりなどない、到達する場所、最終目標地点は、救済は、死である。それから、普段は乞わない許しを一個人に請うたり、反逆し痛めつけられたりして、一個人の手の中に完全に掌握される。一個人は、圧倒的な存在に通常なりえないが、特定の条件がそろえば、特定の個人間ではなりえる。というか、そう言った家族などは、現代でも無限にあるだろう。閉じた世界に法は無くても良いのだから。
昔の子どもは、戦争ごっこをしたらしい。現代でもサバゲーがあるが、あれは実際の戦争再現というよりも、シューティングがメインの戦争テレビゲームを現実世界で再現したものに近いだろう。昔の戦争ごっこには、捕虜、拷問、切腹ごっこなども、あっただろうと想像つくが、サバゲーの中でそのような行為をするのはお門違いになるだろう。ゲーム性が洗練されて愉しいのだから、死について考えるのは愉しいに違いないが、サバゲーの場で、わけのわからない死の概念をこね回す意味はない。サバゲー内での犠牲は、贄などではなく、一つの数字、得点で処理されて清々しいものかと思う。結局、捕虜、拷問、切腹などの再現はやはり人目から隠された、アングラな環境の中で疑似的に行われる。
しかし、もし、死について全容が解明され、誰もが死を畏れない状況であれば、そこにエロスなど最早一切なくなるだろう。拷問だって余計に無意味なものと化し、かつての激烈な拷問の記録さえ、読んでいて、空しくなるかもしれない。
※文フリ東京35で出した本に載せた雑記の一つです。