救われたい
死にたいと口に出すことは簡単だ。
私は何かあるたびに死にたいと息をするように呟いてしまう。聞いている方は溜まったものじゃないだろうな。
死のうと本気で思ったことは多分ない。
でも死にたいと本気で思ったことは何度もある。
死ぬ方法について、20代前半までは漠然と「手首を切る」「首を吊る」「高いところから飛び降りる」くらいしか手段がないと思っていた。あとはまぁ「ピストルで頭を撃ち抜く」とかもあるけど、あまり現実的ではないと思う。
とはいえ、前者3つも私にとっては中々に非現実的な手段だった。物語やニュースの中での話でしかなかった。だから死にたいとは思っても、「どうやって死ぬか」を具体的に考えたことはなかったのだ。
20代後半、知人の親族が自家用車内で自殺を図った話を聞いて衝撃だった。
もちろん聞いたことはある方法だったが、こんなに身近な人の親族が自らの命を絶ったと聞いて、不謹慎だが、私の未来が広がったと思ったのだ。(もちろん遺された遺族のことを思うとやるせない気持ちにもなった。)
手首を切ったり首を吊ったり、いわゆる外傷によって心臓を止める方法は、私にとっては相当な勇気が必要だった。
眠りながら死を待つことができるなんて、勇気のない私にはぴったりの死に方だと思った。
死ぬ手段を見つけたおかげで、私は「いつでも死ねるぞ」という謎のマインドで生きることが今できている。
「死」は私にとって救いなのだ。自分が自分であることを守る最後の手段だと思っている。使わないにこしたことはないのだけど、いざという時の御守りみたいなもの。
この生きにくい世界に残された、たった一本の蜘蛛の糸のようなもの。
とりあえず、ありったけの鎮痛剤は、常に用意している。