仮面ライダーBLACK SUNと日食
気づけば2023年になってしまった。
アマゾンプライムビデオで配信された「仮面ライダーBLACK SUN」は、2022年に観たドラマの中で最も印象に残った作品だったので、忘れないうちに、感想と「自分はこう観た」という記録を残しておきたい。
※以下ネタバレがあります。
仮面ライダーBLACKのリブート
本作は、1987年〜1988年放送の「仮面ライダーBLACK」のリブート作品であり、仮面ライダー生誕50周年記念企画作品でもある。監督である白石和彌は特撮ではなく邦画界の人。
とても面白かったので感想を漁っているのだけれど、まあ賛否両論。
「見たくないもの」をひたすら突きつける作風だし、それはそうだろうなと思うが、よく見る批判が「仮面ライダーBLACKである必要を感じない」というもの。
本当にそうだろうか?
というのも、上記批判の中で「仮面ライダーBLACKとはこういうものだ」という具体的な指摘は、ほとんど見かけないのだ。
そこで、原典である仮面ライダーBLACK(およびRX)の特徴を考えてみた。ざっと思いつくのはこんなところ。
1:初のライバル仮面ライダー登場
2:原点回帰を目指した作品
3:石ノ森章太郎が久しぶりの(そして最後の)漫画版を作成
4:昭和ライダー最終作であると同時に、平成ライダーの礎になる多くの要素を作った
で、原典BLACKの特徴を上記のとおりに整理してBLACK SUNを振り返ってみると、かなり原典を踏襲またはリスペクトしているんじゃないかなと思う。
少なくとも、アマゾンズとアマゾンの関係よりはずっと近い(アマゾンズも大好きだけど)。
仮面ライダーBLACKと日食
原典BLACKでも、BLACK SUNでも、南光太郎と秋月信彦は日食の日に生まれたという設定。
「ブラックサン」という名前は「日食により太陽と月が重なって太陽が黒く染まって見える様子」が由来であり、「シャドームーン」は「日食により太陽と月が重なって月の影を見ている様子」が由来。
つまり、ブラックサンとシャドームーンという名前は、太陽と月という真逆の要素を持ちながら、実は本質的に同じ存在であることも示唆しているのだ。
1980年代の特撮作品とは思えないほどクール(この時期はウォッチメンやダークナイトリターンズも生まれているので、ヒーロー系作品の歴史上重要な時期だなあ)。
BLACK SUNは、この日食のイメージをひたすら発展させて作った物語なのだと思う。
その意味でBLACKのリブートでなければ生まれない物語だといえるのではないか。
BLACK SUNと日食
BLACK SUNでは、日食、つまり、「ふたつの異なるものを重ねる」というイメージが、設定においても物語においても、中核的要素になっている。
設定では、例えば次のとおり。
・本作における改造人間(怪人)は、人と他の生物の細胞を融合させた存在である(作中資料ではCELL FUSIONと表記されている)。
・キングストーンは、2つの石を組み合わせることで効果を発揮する。
・創世王は、二人の実験体が融合した存在である(ごく最近公開された設定。確かに初期創世王には右肩に別の顔が張り付いているのだが、こんな設定気づくか!とは思う。…が、この設定開示により作中の説明ではよく分からなかった「継承」関係の設定がほぼ全て説明可能になったのでモヤモヤはなくなった)。
物語としても「ふたつの異なるものを重ねる」という手法が多用されている。
・(いうまでもなく)光太郎と信彦
・人間と怪人
・過去と現在
・左翼(的なもの)と右翼(的なもの)
・権力とマイノリティ
・正義(っぽいもの)と悪(っぽいもの)
・現実とフィクション
ここでいう「重ねる」とは、ふたつのものに共通する部分を見出したり、逆に決定的に異なる部分を炙り出したりすることをいう。
「過去と現在」なんかは本作のユニークなところで、本作の「過去編」の役割は単なる「現在編に繋がる謎の種明かし」だけではない(種明かし的要素ももちろんあるけど)。
6話・7話は明らかに過去編と現在編が「重なる」ように描かれていて、例えば、過去編でも現在編でも、光太郎は「俺が一人で終わらせる」と宣言して単身で創世王と対決するが、目的を果たせず左足に重傷を負い、コウモリに助けられる。同じように、過去編でも現在編でも、信彦は「ゴルゴムを取り戻す」と宣言して、何もできずに敗北して捕まる。
同じことを繰り返していることは作中でクジラも指摘しているが、これはやがて光太郎の「敗北の意味を受け継ぐ」というセリフへと繋がっていく。
もちろん過去編と現在編で異なるところもあって、SPを全滅させられたときの堂波祖父と孫のリアクションは対比的に描かれている。
ビルゲニアと堂波はまるっきり立場が逆転しているが、上位者が下位者に対して理不尽な暴力を振るうという構造自体は、実は変わっていない。
上記は例だが、本作は日食=「ふたつの異なるものを重ねる」というテーマ/モチーフが貫かれているのだ。
ラストシーンと日食、そして蝗害
本作を賛否両論にした最大の要因は、おそらくラストシーンだと思う。
「ヒロインである葵が次世代の希望になる」という分かりやすく安心なエンディングではなく、「葵が少年兵を育成して反政府テロ組織を結成する」という展開。
ラストシーンは明らかに露悪的に描かれていて、意図的に視聴者に不穏さを印象づける演出がなされている。
実際に視聴者は不穏と困惑に叩き落され、「納得できない」という感想も少なくない。
このラストシーンも、やはり「日食」というテーマで描かれているのだと思う。
ラストシーンは、これまでの物語で示されてきた「ふたつの異なるもの」が、ヒロインである葵のもとで一気に重なって日食を起こすシーンなのだ。
・葵は光太郎の後継者を自称しているが、行動はむしろ信彦に近い
・葵は2022年を生きる若者であるが、組織はむしろ1972年的である
・葵はおそらく自身を正義だと信じているが、客観的には悪の要素を多分に含んでいる
・葵はマイノリティ側だが、権力側の代表である新総理大臣が語るものと同じ行動原理(自衛のための武装)の実践者でもある
ラストシーンの葵は日食の収束点であり、矛盾の権化である。意図的にそのようなものとして描かれている。極端な表現をすれば、視聴者の感情移入は、最初から期待されていない。
なので、困惑は当然といえば当然なのだけど、「日食」という一貫したテーマとの関係では、ラストシーンはテーマに誠実とすらいえる。
社会風刺としても、「いつまでも画面の向こうでシケた顔をしている場合ではない」=「当事者意識を持て」が到達点で、これを超えた「正解としての解決方法」なんてメッセージを出すつもりはなく、むしろ放置した場合に起きる災いを描いたのだろう。
そして、誕生する葵の新組織。
構成員のほとんどは子供だが、殺人訓練や爆弾作りをしている危険集団。
ひとりひとりは弱く、しかし凶暴な群れであり、大きな災いをもたらす。
つまり、「蝗害」である。
バッタ怪人の後継者が、蝗害を発生させるというオチなわけだ。
これを物語全体で見ると、「日食と蝗害による創世王誕生で始まった物語が、(擬似的な)日食と蝗害の発生で終わる」という構成になっている。
これは無限を意味するシンボルマークにも繋がる。
とても映画的だし、よくできていると思うんだよな。
(暇があったら整理し直したい)