ごぼうが泥を落としてからの話(お魚番外編)

 10年前、私は神奈川県のとある繁華街の和食居酒屋で板前をしていた。調理歴は4年、その店で働き出してからは半年目の冬。その夜は短大時代の同級生が店に食事に来る日だった。彼は都内で研究職をしているサラリーマンになっていた。

 栄養士資格が取れる短大に行ったのは、食べ物に関わる仕事につけば自分が食べることにも困らないでしょ、というちゃっかりした理由からだった。

 卒業後は同栄養士学科の研究職に就き、任期満了後、和食調理を学びたいと和食屋に転職。そこで3年働いたあと、場所を変えて修行したいと、隣県の繁華街の和食居酒屋に飛び込んだ。繊細で丁寧な食事と厳選した日本酒を提供する店として人気の繁盛店だった。昼夜忙しく厨房を飛び回り、深夜帰宅して布団に倒れ込む日々。冬の繁華街は風が冷たく、手指のアカギレに沁みた。駅前の喧騒は体を通り過ぎながらささくれを起こす。仕事ができる方ではない。大将から叱責されるたび唇を噛んだ。

 予約時間よりほんの少し前に、寒さに頬を赤くして入店してきた彼は、「久しぶり」と恥ずかしそうに言った。自分の持ち場近くのカウンター席に案内し、彼への料理は私が作るよう大将から伝えられた。料理、どうする?おまかせで良ければ勝手につくるよ。「うん、じゃあそれでお願いするよ、あと生ビールで」東北出身の彼の訛りが懐かしく心地よい。

 口数が多い方ではない彼と、調理をしながら近況と他愛ない話しをした。彼はひとつひとつの料理を大切な宝物を前にするように見つめ、一口ずつ丁寧に味わっていた。目の前の変わらぬ笑顔が体に染みていくような感覚。最後の土鍋ごはんはおむすびにして持ち帰ってもらった。

 「今日はありがとうね、ごちそうさま」わざわざ来てくれてありがとう、嬉しかったよ、体に気をつけてね。またね。元気でね。街中にひとつのぬくもりが消えていくのが愛おしかった。

 後日、彼からメッセージが届いた。「どれもこれも美味しかった、ありがとう、特にごぼうのからあげが美味しかったよ。感動した!」

 ごぼうの泥を落とし、15cmの長さに切って太いものは半割り。水にさらした後、水から1時間炊く。水にさらして冷やしたら、出汁と塩と薄口醤油でさらに1時間炊く。出汁に浸したまま冷まして冷蔵。オーダーが入ったら片栗粉をまぶして180℃で揚げる。表面がカラッと揚がったら山椒塩で味付け。これが牛蒡の唐揚げ。見た目に反して牛蒡は柔らかく温かい出汁が染み出す。その店の看板料理だった。日々に忙殺されてルーティンになっていた一品に、彼はいたく感動したそうだ。

 仕込み仕込み、仕込みに追われ、毎日こなすだけになっていた料理だったが、知らない土地で同級生の彼を前に料理をつくり、いつのまにか心はあたたかくなっていた。
 手をかけて仕込んだもの、心をかけたもの、だれがつくるか、だれが食べるか、だれと食べるか。食べ物の味は無限の可能性が広がる。それに気づかせてくれた彼に心から感謝している。

 あの夜から10年、食べ物に携わる仕事を続けてたくさんの人の笑顔に触れてきた。「飲食業に就けば食べていけるでしょ」という甘っちょろい利己的な動機で始めた仕事は、いつしか生きがいとなっている。食べ物の向こう側に人がいる、こんな当たり前のことに気づかせてくれたのは、明確にあの時の夜であったと思う。

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