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 というわけで、今回は、「アートってなぜ必要?」というお話をしていきたいと思います。

 こんにちはフクシンです。

 今日は、先日、アートって必要かというお話をしたのですが、オンラインサロンでいろんな方の意見を聞くことができました。今日はそのことを踏まえて、もう少し掘り下げてお話してみたいと思います。

 前回、アートが必要である理由。それは、アートが認められる社会がそれぞれの人の違いを認めることの証。また、人それぞれのらしさを表現できることが大切なのでは、とお伝えしました。

 皆さんにとって、アートって不要不急ですか?
 ちなみに不要不急とは、どうしても必要というわけでもなく、急いでする必要もないこと を意味します。

 このテーマで、オンラインサロンで皆さんのお話をお聞きしました。
今回は、ぼくが感じたことをお伝えしていきたいと思います。

 ぼくにとっては、例えば非常時、災害時でも音楽って、あればいいなって思います。例えばコロナ禍で美術館やギャラリー、劇場、ライブハウス、集客施設がクローズし、パフォーマーたちは活動の休止を余儀なくされました。タップも同じようにレッスンスタジオがクローズとなり、しばらくオンラインでしかできないもどかしい時期がありました。

 その一方、地方公務員では、阪神淡路大震災、大阪北部地震、いろいろ非常変災時に命に係わる仕事の経験もあります。そして、今回のコロカ禍。公で何が必要なのか、判断を迫られるときもありました。

 今回は、前回に引き続きですが、アートが不要不急なのかという切り口に対して、いろんな視点で僕の考え方をお話します。

 僕は、人とテクノロジーをタップダンスでデザインする地方公務員としてタップダンスのお話や、コミュニケーション、キャリアコンサルタントなど、ぼくの身の回りに起こるいろんなお話を発信しています。
 今回ご紹介する動画以外にも有益な情報がいっぱいあるので、ぜひチャンネル登録をしておいてください。


いのちよりもアートは大事?


 アートは不要不急か

 人から求められるかという面から見ると、
 非常変災時、多くの人にとって、もっと優先すべき項目があるのではと思います。だから非常変災時は公に支えられる必然性はない。でも、一人ひとりから見ると、ぼくがどんな時でも音楽を欲しがるように、アートを必要とする人がいて、人を勇気づけたり、生きる力を与えたりする。そんな感じがします。
 一方、供給するアーチストの視点に立つと、活動の自粛を余儀なくされている中で、オンラインなどいろんな工夫で発信をされています。必要な人が求めててそれを届ける、それを第3者がふさわしくないとか、自粛しろとかいう必要もないし、言われる筋合いはない。求める人と提供する人の関係だから。ただ、非常識なことは別ですよ。

 結局、公には不要不急ではあるが、人それぞれに需要と供給のバランスがあって、その関係において他人がごちゃごちゃいう必要も言われる必要もない。

 でも、これは言えると思います。アートを求める側はともかく、アートを提供する側は、命が危ぶまれる非常変災時ではない場合が多いのではと思います。それだけのゆとりがあるからこそ、発信できるもの。だから、そのゆとりが求める人には響く、ゆとりがない人は羨む、許せない場合があるのではと思います。

 誤解のないようにお伝えすると、アートを提供する側がゆとりがあるというのは、アートに命を懸けてないとか、楽しんでやっているとかそういう意味ではありません。例えば災害、戦争、命が危ぶまれるとき、安全でない場合は、アートを創作するよりも最優先されるものがあるのではと思います。

 でもね、、、、、、タップダンスのルーツを皆さんご存じでしょうか。いろんな説がありますが、手を縛られた奴隷船で運ばれた人たちが、甲板で足音を踏み鳴らすところから始まったともいわれています。要するに、命の危険があるときにも、こうしてアートは生まれてきた?その時はどんな状況だったんでしょうね。

 いったんこのnoteを書いた後、うちの父親と話す機会がありました。うちの父は教員をしていて現役当時は音楽や美術を自分で教えられなかった。退職してから、子どもにはアートが勉強よりも大事と言うことがわかったと言う話がありました。
 最近の例では、ウクライナで避難している人たちが歌を歌って救われてると言うことをニュースで知ったらしく、自分が戦争を経験していたときには考えられなかったこと。
 例えばゴスペルにあるように、アートや文化は宗教とよく似た人を救う力があり、アートは生きる力を人に与えてくれるということ
 いつも人の話を聞かない、大声で話すうちの父ですが、この話は結構僕にはめちゃくちゃ大きいインパクトでした

アーチストに社会性は必要?

 アーチストは、求められるかたちで求められる人たちに作品を提供できるのかどうか。でもそもそも、社会性そっちのけでわがままで作品と向き合うことがアーチストのいいところでもあり、課題のあるところだと僕は個人的に思います。

 アートは、自分に対しての内なる問いかけを外に発信して共有することに意義があり、他人の評価を気にするより、自分がいいと思ったものを自信をもって発信するところに、作品に意思が生まれます。

 その一方、アートを不要不急なものではなく、絶対人には必要なものというには、どう必要なのかを言語化して、わかりやすく伝えることが必要です。いわゆるエビデンス。こうなると、世の中の空気を知る力が大事。わかりやすく伝えることが大事。人に理解されない発信なら認知されません。そして発信するアート自体を、どうしたら役立つのか考え、創作することも大事。でもこうなるとアートとは僕の中では言えないような気がします。

 アーチストは、少し変わった人という方が面白いのですが、行政職員から見るとつきあいにくい、果たして役に立つのかエビデンスがわからない。これがアートがヨーロッパで価値を社会的に認められて、日本では市民権を得られない違いだと思います。ヨーロッパでは、アーチストにパトロンがいて、たぶんこの人たちが社会的な評価をアーチストに代わって伝えている。
 だから日本はダメなんだとか、遅れてるとかではなく、本気でヨーロッパのようにする必要があるのなら、それをわかりやすく伝える方法を実践することが実を結ぶのではと思います。

 作品に向き合うアーチストに社会性は必要か?

 今回は、アートの発信者からの議論が中心だったんですが、アートがどう社会に活かされるか、そのためにアーチストが、自分達が、何ができるか、どう伝えられるか、そんなことも議論が広がればと思いました。

 政策起業家という言葉を皆さんはご存じでしょうか。ぼくも最近AbemaTVで知った言葉ですが、とても感銘を受けました。社会起業家は、社会に貢献するためにビジネスを起こす人。でも、保育所の制度や、道路のルール、様々な公共の制度の中での実施が難しいことって、新しい取り組みにはよくあります。ルールを乗り越えるには、それなりの実証が必要です。
 でも政策起業家は、自ら動いて、実践して、エビデンスを示して、行政の政策自体を変えていく。そんなひとたちのことです。
 行政で働いて思うことは、制度など社会のルールを運用するとき、それが正しいとして当然運用したので、ルールを変えるには、相当のわかりやすいエビデンスが必要。曖昧なものに税などは使えないのは当たり前です。しかし、制度も社会の変化と共に変わるべきもの、だから、そのエビデンスを待っている面もあります。なので、最近は民間企業との公共事業の協働などが進められています。

 本当に社会に必要とされると自らの活動を通して思うのであれば、こうした誰にでもわかりやすいエビデンスを示す。これがアーチストにも求められるのかと思います。

 どうですか?日本で必要なものにするため、アートの政策起業家になってみませんか?

 「政策起業家」の著者 駒崎弘樹さんが伝えられている深ーい一言を伝えたいと思います。
今のあたりまえの土台には誰かの汗が染み込んでいる
 変わらない世の中に苦言を言うだけじゃなくて、世の中を変えようと自分ができることを動いている人の深い言葉です。
 アートの世界も、わかりやすく伝える、わかりやすく動く、そして不要不急でない社会に欠かせないと理解させる。そんな仕掛けが大切ではないでしょうか。

アートの反対語は?

 僕も、安全が確保されていて、生命の危険もなく、だからアートとしてタップを発信できる環境にいます。この環境、周りの人たちに感謝しながら、自分のタップダンスの活動に誇りを持ってやってきました。でも、これがめちゃめちゃ多くの人に求められているかと言えば、そう思いません。

 実際に、タップの動画をYouTubeで見ると、すごく有名な方でもチャンネル登録者数がそんなに多くありません。また、僕のレッスンにもたくさんの人が来てくれているわけでもなく、日本では今のところですが、誰もがやって一般的というには程遠い状況と思います。
 マスで必要とされるものだからこそ、税金で守られる。社会で必要とされるものであり、タップは多くの人たちに支えられるエビデンスがまだ示されていないんだと思います。
 つまり、市場で求められなければ自然淘汰されるべき。

 でも、今、そんな僕が発信してるタップには、多くではありませんが信じてきてくれる人たちがいます。
 そんなみんなに、タップを通して違う自分になる、本当の自分が出せるアーティスティックな自分の演出ができたらと思っています。自分を共有したい、発信したいから始まって、本当の自分を見つける。それが僕の目指すアート

 最後に、アートの反対語は何だと思いますか?

 それは自然。Nature。

 でも、僕は、その人が持つ本来的なNatureをタップを通じて引き出す。そんな活動をしていきたいと思います。

 やっぱり言語化するのはちょっと難しい。言いたいこと伝わったかな?



まとめます。

 僕の思っていることです。
 アートって公には不要不急ではあるが、人それぞれに需要と供給のバランスがあって、必要な人にとっては欠かせないもの。求めても、提供しても、他人がごちゃごちゃいう必要も言われる必要もない。

 でも、アートを提供する側は、今の日本で創作活動をするときには、命が危ぶまれる非常変災時ではない場合が多いのではと思います。それだけのゆとりがあるからこそ、発信できるもの。だから、そのゆとりが求める人には響く、ゆとりがない人は羨む、許せない場合があるのではと思います。

 アートは、自分に対しての内なる問いかけを外に発信して共有することに意義があり、他人の評価を気にして作品作りをするより、自分がいいと思ったものを自信をもって発信するところに、作品に意思が生まれます。

 その一方、アートを不要不急なものではなく、絶対人には必要なものというには、どう必要なのかを言語化して、わかりやすく伝えることが必要です。いわゆるエビデンス。こうなると、世の中の空気を知る力が大事。わかりやすく伝えることが大事。人に理解されない発信なら認知されません。そして発信するアート自体を、どうしたら役立つのか考え、創作することも大事。でもこうなるとアートとは僕の中では言えないような気がします。
 こんなジレンマを日本では抱えていると思います。

 でも、そんな日本を変えたいというのであれば、政策起業家を目指し、行政自体を動かしていく。そんな活動はいかがでしょうか。

 僕たタップダンスの活動は、守られる必要はないと思います。必要がなければ市場で自然淘汰されるべきで、でもタップダンス自体は、日本に1931年に入ってきたと言われていますが、90年間続いてきました。
 僕は、これからもその人が持つ本来的なNatureをタップを通じて引き出す。そんな活動をしていきたいと思います。

 今日も最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 人とテクノロジーをタップダンスでデザインする地方公務員 フクシンでした。
 また次の動画でお会いしましょう。

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