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2025.1.10
はじめに
1月9日。下北沢の書店「B&B」にて、鳥羽和久氏×古賀及子氏の対談イベントに参加した。
今回の対談は、お二人の新著刊行記念として行われたもの。
どっちもめちゃくちゃ読み応えあり。おすすめです。
今回、私は、本の作者が実際に言葉を生み出す瞬間に初めて立ち会った。刺激的な体験であった。掛け軸にして毎日触れたくなるような言葉にも出会った。
以下、今回の対談を受けて、私が個人的に考えたことを記録しておく。
1ー1:
読むほどに「学び」がわからなくなること/突き詰めるほど「好き」がわからなくなることについてのメモ(→千葉雅也『勉強の哲学』への落とし込み)
「読むほどに『学び』がわからなくなる」
「『好き』を突き詰めるほど、『好き』がわからなくなる」
新刊の感想を述べ合う段で、お二人からこのような言及があった。
概念は、その定義を厳密に求めるほど、流動的になり、捉えられなくなっていく。あるいは、相対化が繰り返されるほど意味が飽和し、限定化が繰り返されるほどその定義の足場を失っていく。
お二人の感想には、概念を突き詰めることをめぐる、以上のような困難が見出せるように思う。
この点、私は、千葉雅也『勉強の哲学』における「アイロニー/ユーモア/ナンセンス」の議論を思い出した。
以下、「概念を深堀りする方法」としてこの議論を援用しながら、お二人の感想について考えてみる。
<参考>『勉強の哲学』における各概念のおおまかな意味
〇 アイロニー
会話のコードを疑い、批判すること=コードの根拠を更に問うこと。
たとえば、ケーキバイキングの会場で、それぞれのケーキを「美味しい」と言いあっているところ、自分が感想を述べる番になったとき、「美味しい以外の答えって許されてるの?」などと言い、その場のコードに「ツッコミ」を入れること。
〇 ユーモア
会話のコードを、元のコードから別のコードに変換すること。
拡張的ユーモアと、縮減的ユーモアの2種類がある。
前者は例えば、恋愛について話題にしているときに、「それって音楽だよね」と、恋愛の話を音楽の話になぞらえて話す状況に持っていくこと。
後者は例えば、仲間同士で、あるアニメ「を通じたその時代の懐かしさ」を共有しているときに、話題をその「アニメ自体の話」へと縮減すること。
〇 ナンセンス
アイロニーもしくはユーモアの極限状態をいう。
アイロニーを繰り返すと、会話のコードを支える根拠がなくなってしまい、文字通り「何も」言えなくなってしまう。
拡張的ユーモアを繰り返すと、拡張され切った意味が全ての言葉を包含してしまい、何を言っても同じことになってしまう。逆に縮減するユーモアを繰り返すと、意味が消え、言葉を発することそれ自体が目的となるような状態になってしまう。
『勉強の哲学』では、アイロニー方向/ユーモア方向のナンセンスを理解したうえで、ナンセンスにならない位置で問いを「中断」することが重要だとされる。
まず、「アイロニー」とは、端的に言えば「定義の深掘り」である。ある概念に対して「それはつまりどういうことか?」と問うことを意味する。
次に、「ユーモア」とは、「論点の拡張/縮減」を意味する。
食べ物にまつわる「好き」を人間(恋愛)関係の「好き」に変換して考えてみたり、「学ぶ」ことのうち、「暗記することの重要性」へと話題を縮減していくようなことを意味する。
最後に「ナンセンス」とは、アイロニーを突き詰めすぎて定義をこれ以上深められなくなったり、拡張的ユーモアを突き詰めすぎて定義の意味が飽和したり、あるいは縮減的ユーモアを突き詰めすぎて定義自体が消滅することを意味する。
以上から、「学び」や「好き」といった概念を突き詰めることの困難さは、各概念をアイロニカルに問うてみたり、ユーモアによって論点をずらしてみたりするうちに、どんどんナンセンスの方へ近づいてしまっている状態を指すのではないか、と考えられる。
ここで、『勉強の哲学』に従えば、重要なのは、ナンセンスに陥る手前で、ある定義に「重みづけ」をし、問いを「中断する」ことである。
以上を踏まえて、この問題を、以下の「決定」と「過程」の議論に接続する。
1ー2:
1ー1を踏まえた「決定」と「過程」の議論についてのメモ(「過程」に現れるユニークさについて)
今回の対談における前半のメイントピックは、「決定」(=選択)と「過程」をめぐる議論だった。
そこでは「決定」について、その絶対的な根拠を求めることは原理的に不可能であることが指摘され、根拠の深堀りを「中断」する姿勢の重要性が指摘されていた。
これは、上記の議論に照らせば、ナンセンスの手前で、アイロニー/ユーモアの問いをどこかで「中断」することが必要だという点と整合する。
さらに、そこから派生して、「決定=中断」するまでの「過程」の価値に対する言及もあった。『好きな食べ物が見つからない』の分厚さをめぐり、「決定までの過程自体、この本の分厚さ自体に意味がある」旨の発言があった。
この点について私見を挟むと、その「過程」にこそ、個々人のユニークさが現われるのだろうと考える。
どの根拠を疑い、どの話題を拡張/縮減するのか、その道中の手つきにこそ、「その人らしさ」が現われるのではないだろうか。
この意味で、今回の対談には、『勉強の哲学』的要素を読み取れると考える。
私は、鳥羽さんは、なんでもかんでもやってあげる子育ての仕方に対して懐疑的な見方を持っていると理解しているが、その姿勢は、このような、「過程」を経て「決定」に至ることを重視する観点から導かれるものと推測する。
2 :
古賀さんの文章の特徴についてのメモ
(※250111加筆修正)
今回は、鳥羽さんが古賀さんの日記を朗読する場面や、現地参加された方の質問において『好きな食べ物が見つからない』の一節を朗読する場面があるなど、古賀さんの文章そのものに焦点が当てられていた。
この点、古賀さんの文章の特徴について、個人的に考えてみたことを書いてみる。
古賀さんの著書における無数の名フレーズのなかで、私が個人的に好きな一節がある。
私たちは「かざる」ということばを使って実は放置することに免罪を感じている。
これは、玄関に転がっていたピンポン球大の緑の球を、靴箱の上に置く場面での一節である。
この一文について、古賀さんの他の文章と総合的に比較検討した結果、その特徴、さらに言えば「読み手の目を惹く文章」の特徴とは、「①通常、注意の向けられない行為や表現、現象に着目し、②それを印象的な言葉に置き換え、端的に説明していること」ではないか、と考えた。
上の一節に当てはめれば、①私たちは、「あるものをどこかに置く」という行為について、通常、それをいちいち別の仕方で言い直すことはしない。
しかし古賀さんは、そのような行為に(意識的/無意識的に)着目し、「かざる」という別の言い方でピンを刺す。
そして、②「かざる=実は『放置』している」という分析を示し、さらにその状況全体に対して「免罪」というインパクトのある語が採用される。
「免罪」という言葉自体のインパクト、状況を説明する言葉としてのユニークさ、そして全体としてのコンパクトさ。
私たち(少なくとも私)が古賀さんの文章に惹かれるのは、以上のような理由ではないかと考える。
また、対談で鳥羽さんが古賀さんの日記を朗読していたとき、私は、古賀さんの文章における「ユニーク要素の『個』的分析」と、「後付けのストーリーテリング」の要素を感じ取った。
「ユニーク要素の『個』的分析」とは、行為/表現/現象を分節的に観察し、それぞれに比喩を与えているということである。
例えば、仮に「寝起き」の場面を観察するとする。
そこにおいては、目を開けること、目に光が入ってくること、意識が覚醒してくること、起きたときの体の具合、毛布の重さなど、一つの場面を細分化し、それぞれのパーツに比喩を与えているという印象を受けた。
「後付けのストーリーテリング」は、分節した行為を、再び「寝起き」というある種のまとまりに収めるときの、各節間の整合性を取るための編集行為である。
この点、あくまでも、「分節的把握」が先で、「ストーリーテリング」が後、という理解である。対談中、はじめから存在する枠組みに気持ちを当てはめることの貧しさを指摘していたことなどから、そのように考えた。
3:
自分の内側に答えを求めること/感情の取り扱いについてのメモ(「他者」としての日記)
最後に、後半のトピックのひとつとなっていた、「思うこと」/「感情」の取り扱いについて、私見を述べてみたい。
このトピックでは、(a)「思う」ことのつまらなさや、既存の型に自分を当てはめていくことの貧しさに対する指摘、状況を俯瞰して、自分の外に面白さを探してみることへの言及があった。
(b)また、日常の「観察」記録としての日記に「感情」を書くことの是非についても議論があった。
この点、鷲田清一『「聴く」ことの力』(筑摩書房、2015年)では、①自分の内側をいくら覗き込んでも、自己のアイデンティティを示すような要素には出会えない旨、②「感情」とは、日常的には、他者によって/他者を介して与えられるものであり、他者から自分を隔離したところで得られるものではないこと、他者から隔離された場所では、人は、ウロボロスのように、自らを飲み込み続けるグロテスクな形でしか自己と関われなくなる旨が指摘されている(93頁)。
上記の議論を参照すると、①については、端的に、上記(a)における議論と呼応するようにみえる。
また、②を踏まえて(b)の議論についてみると、日記に感情を残したい人は、「他者」としての日記を求めているようにも思われる。
つまり、日記に感情を残したい人は、内的世界において自分で自分を食いつぶすことから逃れるため、その避難所、あるいは感情を与えてくれる場としての、「他者としての日記」を求めている、とは考えられないだろうか。
このように考えると、日記に「他者性」を求める姿勢を完全に否定することは、ある種の暴力性を孕むのではないかと思う。
他方、「日記を書くための『観察』を通じたメタ視点の獲得」という意味で、日記は、「ウロボロス的状態」から「脱出」するための装置としても機能しうる。個人的には、そのような形で日記が活用されることは、望ましいことだと考える。
いずれの意味にしても、日記を他者としてとらえるという姿勢は、どこかでもう少し真剣に検討されても良いのではないか(もしかしたらもうされてるかも)と感じた。
おわりに
以上が、私が、今回の対談を経て考えたことです。
大変勉強になり、また勇気づけられ、考えさせられる機会でした。
それぞれにサインをいただいた2冊の本と、この日の体験は、私にとって正真正銘の「宝物」です。
お二方、関係各位、本当にありがとうございました。