退職の挨拶をさせてもらえない僕への、総務部長からの礼儀
最終出勤日まで残り4日。
今日は朝礼で退職の挨拶をする予定であったが、寸前で社長から挨拶を中止するよう電話があった。
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1年半前、僕の入社は社長面接だけで決まった。社長以外のすべての社員は、採用決定後(入社日の1週間前)に僕の存在を知ったらしい。
そして1年半後。社長ひとりで採用を決めた人材が、短い期間で転職を決めた。挨拶を中止させた背景には、その採用手腕を問われたくないという思いがあったのかもしれない。
お世話になった方々に最低限の礼は尽くしたいと、それなりに真剣な思いで臨んでいたが、社長のメンツを考え中止を受け入れた。
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今回の挨拶は人事に関連するため、事前に総務部長から了承を得ていた。総務部長は社長の実弟にあたる。僕と総務部長は廊下ですれ違うたびに、共通の趣味であるギターの話で盛り上がっていた。そして、そのほとんどで僕は聞き役だった。
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この会社では朝礼の当番が2人割り当てられる。1人は司会と「職場の教養」という冊子の朗読。そして、もう1人はスピーチ。
今日は僕が司会・朗読で、総務部長がスピーチの当番。
朝礼が始まる前、僕は総務部長のデスクに行き、退職の挨拶が中止になった旨を伝えた。総務部長はうつむきながら、深くため息をつき、「申し訳ない…。」と呟いた。
僕は苦笑いしながら「いえいえ。」としか言えなかった。
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僕の司会で朝礼が始まり、総務部長にスピーチをお願いした。
一礼から、少しの沈黙。
「下手の横好きですが、家でよくギターを弾いてます。」
「最近リズムマシンつきのアンプを買いまして…。」
「手癖で弾いちゃってばかりなので、教則本を読んで練習しなきゃと思ってます。」
僕と総務部長が廊下で立ち話をするときの定番トピックばかり。
含蓄もウィットもなく、楽器やギターに興味がなければ面白くない話。
僕を含め、おそらく聴いていた全員が感じた疑問。
…何が言いたいのだろう?
しかし、この盛り上がりのないスピーチは、思わぬ形で佳境を迎えた。
「…とまぁ、大したことない話ばかりですが。
思えば、なぜかうちの会社は、ギターの話を聞いてくれる人がいなくなっちゃう傾向にある。とても残念だ。」と結んだ。
そうだったんだ。
社員の皆さんは、僕が退職することを噂では知っていたし、社内で唯一ギターの話ができるということも知っている。
総務部長はスピーチで、退職の挨拶を公式にさせてもらえない僕に代わって、朝礼という公式の場で僕の退職をアナウンスしてくれたのだ。
「退職を公表するな」という社長命令に対する抵抗と、挨拶の機会を奪われた僕への礼儀。
胸が熱くなった。
その後、「職場の教養」を朗読したが、感情の昂ぶりをなだめるのに必死で、内容は憶えていない。
いま思えば、朗読後に「僕もギターをもっていますが、楽器はいいものですよ。」といった、当たり障りのない一言でも、その場で返事をして礼を返せばよかった。
心残りだ。