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なぜ巨乳差別が起きるのか?

こんにちは。
10110000110110001010000000001010001001110001110001です。
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巨乳当事者の思いが込められたnote

Twitterで関わりのあるおりちゃんが、巨乳差別に関するnoteを掲載していましたので、私も考察をしてみます。

これは巨乳の当事者が、これまでどのような見方をされてきたのか、貴重な記事です。おりちゃんがこれまでどんな偏見を受けてきたのか?どんなセクシャルハラスメントを受けてきたのか?どれだけ不快な思いをしてきたのか、読んでいると心の痛みを感じるものです。

巨乳女性が「男ウケを狙っている」「不適切扱い」などされるのではなく、自分の身体に自信を持って、胸を張って、巨乳も生きやすい社会にしていこう…という願いを込めた素晴らしいnoteでした。

特に「同性から身体の揶揄がある」というのは、なかなか見えづらい部分でしょう。巨乳に関しては「男ウケを狙っている」など言われがちですが、当事者からの証言を考慮すると、むしろ「男ウケ」というのがステレオタイプ化してしまっており、事実が見えづらくなっているように感じられます。

当事者でないと分からないことを知ることができました。貴重なnoteと出会えたこと、本当にありがたく思います。おりちゃんと同じ境遇にある巨乳女性の方々に勇気を与えるnoteだと思います。

巨乳バッシングがとまらない

しかし、このとても勇気のある当事者の発言に、残念なことに、心許ない言葉が多くぶつけられています。

「バッシングされていると思っていないくせに」「これのどこが問題?」「巨乳をアピールしたいだけ」「モデルへのバッシングはなかった」などの発言が見えます。

傷ついている本人に対して追い打ちをかけるような発言ばかりです。「巨乳をタブー視してはいけない」と書かれているのに「巨乳は広告に出てはいけない」など発言している人がいるあたり、noteを読んでの反応とは言い難いでしょう。

体型に政治的な正しさはない

巨乳に対するバッシングは、人が生まれ持った体型に対して、正当な理由もなく、不利益を強制する行為、すなわち「差別」であることは変わりありません。

「広告の対する批判」と言う人はいますが、それでは「巨乳は広告に出たらダメなのか?」ということになるでしょう。「巨乳は出てもいいけど強調するな」という人もいますが、それは「胸の大きさによってポーズに制限をつける」となってしまいますので、やはり「差別」です。

「女性の胸など性的とみなされるパーツが強調されたイメージを公共の場に持ってくんな」とは言いますが、そもそも人は様々な体型があるのと同時に、様々な性癖を持っているため、必ずしも人は誰しも胸を性的なものと捉えているわけではありません。

結局「胸が性的」だと考えるのは一個人の主観でしか過ぎません。

「巨乳」という言葉を「黒人」「障害者」「LGBT」などに入れ替えると大問題になるでしょう。多くの巨乳当事者にとっては、自分が「黒人」「障害者」「LGBT」などの立場に近く、迫害を受けていると感じているのです。

しかし、巨乳をバッシングしている人達を見ていると、当事者がどのような立場であるのか想像力が働いているように思えません。

巨乳に感知して動く機械のようだ

しかし、なぜ巨乳になると、排他的な態度を示すのでしょうか?

まるで人が近づいたら扉が開く自動ドアのように、巨乳がセンサーとなったら怒り出すプログラムが設定されているのかな?…と思うほど、機械的な動作を起こしています。

「人間は機械のように反応で生きている」 G.I.グルジェフ

https://www.bookclubkai.jp/portfolio/people1/

アルメニアの神秘主義者のG.I.グルジェフは、上の言葉を残していますが、巨乳をバッシングしている人達というのは、まさに「巨乳に対してただ反応している状態」と言えるでしょう。

結果として、黒人や障害者、LGBTなどには言わないような差別的な言動が、巨乳に対しては言ってしまう状況に陥ってしまいます。

「相手が傷つくのではないか?」
「自分が言おうとする言葉は差別にならないか?」
「反射的に嫌悪感をぶつけていないか?」

ツイートする前に、本来なら思考が働くべきところですが、巨乳に対してただ反応している状態である人間には、そのような思考は働くことは期待できないでしょう。

当事者視点で考えられない人達

当事者の悲痛な思いを発しても、その当事者本人に対して、冷たい言葉をぶつける人はいるものです。

これはガーネットさんの視界では「巨乳の人やキャラへの否定はなかった」と言っているだけに過ぎないでしょう。

おりちゃんの見ている視界とガーネットさんの見ている視界は、別物であり、ガーネットさんに見えないものは、おりちゃんに見えるのが当然です。

当事者がどのように見えているのかを無視して「巨乳の人への否定はなかった」というのは、いかにも自分の視点でしかものを考えられない人間なんだと、自己紹介しているように見えます。

極一部のバッシングでも傷つくもの

先程のガーネットさんは後ほどこのようなツイートをしています。

「巨乳の人やキャラへの否定はなかった」の発言から、「極一部の人しかそんなこと言ってるの見てないですしその極一部の意見をアンフェが殊更に煽っているだけ」と、主張を「なかった」から「数の問題」にすり替えています。

巨乳の当事者にとっては、バッシングの数が多くても少なくても、傷つくものは傷つくでしょう。多数が励ましのリプライだったからといって、少数の誹謗中傷が中和されるわけではありません。極一部の誹謗中傷を軽く見る人はいますが、当事者にとっては、大多数が健全な平和な街なかに痴漢が現れるような出来事と変わりありません。

なぜ当事者を労れないのか?

いろいろ書いてきましたが、最も気になる部分は「傷ついた当事者を労れない」ことについてです。

最も重要な部分は、巨乳を揶揄されたりバッシングされることによって、当事者が傷ついているということですが、それでもなお「自分達の正しさ」を主張するべく、当事者本人にぶつけてしまっている人達が多いということです。

当事者が「傷つく・傷つかない」のと、物事の「正しい・正しくない」は全く別物です。正しければなんでも強い表現で発言すればいいものでもなく、むしろ相手が傷つかないように慎重に言葉選びをするべきでしょう。

同時に相手が傷つくようなことがあれば、速やかに謝罪することも大切です。

しかし、巨乳バッシングをする人は、頑なに謝罪するようなことはありませんし、相手が傷つこうが、自分達が正しいとばかり振る舞うものです。「人を傷つけようが、謝ったら死ぬ」という認識でしょうか?

様々な体型も寛大に捉えよう

かなり長くなってしまいましたが、巨乳バッシングをしている人達は、いかにも巨乳を感知するセンサーが働いて、反射的に嫌悪感を示したり、当事者の立場を考えられなくなる人達が多いのか、よく分かるでしょう。

人間は思考能力を持っているはずなのに、巨乳バッシングをする人達には思考能力が働いているように思えません。まるで自動機械のようです。

胸が大きい人が、仮に男性人気や男性ウケを狙ったとしても、所詮は他人事ではないでしょうか?「男性ウケを狙う人」と「巨乳好きが喜ぶ」の双方が合意しているならば、外野の人間による介入の必要性はありません。これは広告でも同じことではないでしょうか?

それがきっかけで抑制ができない人がいたとしても、あくまでも責任は一個人にあります。性犯罪の責任を広告や実在人物に向けるのは、性犯罪者を擁護しているも同然の責任転嫁であり、結果として巨乳差別に繋がります。

身体的な特徴で規制もすることも、タブー視も、不適切扱いもなく、人それぞれが自分の体型に誇りを持てるような世の中づくりをするほうが、多様性の観点では大切です。

結局、人が自分の身体を使ってアピールするのも他人事ですし、少しは寛大に捉えるようにしたらいかがでしょうか?

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