ヴィンツェンツォが出来上がるまでの一考察~20
(読んでくださる方々へ、タイトルの名前はわざと”ツェ”にしてあります。すみません。)
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今日で年内の授業はおしまいだった。
たくさんの課題図書やレポートから解放される、今のところの予定は、家に帰って両親とクリスマスを過ごすだけだけど、ほっとしながらアニタはカーキ色のコートに腕を通した。クリスマスは兄さんもいるのかしら?あの後2度週末のフードバンクがあったけれど、兄さんは忙しいと言って来ていない。ヴィンチェンツォは楽しそうにクリスマスの飾りつけを直したり、やってくる浮浪者の話にうんうんと耳を傾けたり、鍋を磨きながらおばさんたちと話をしたり、いつも通り忙しく働いていたが、相変わらず、黒スーツの男たちは2つの路地の前に立っていて、それもがいつもの景色としてもはや馴染んできてしまうように感じられるように。
「アニタ!」
深くて気持ちの良い低音で名前を呼ばれる。校門を振り返ると、つるりとした綺麗なほっぺたをきゅっと上げた微笑みで、ヴィンチェンツォが立っていた。
「帰るの?送っていくよ。日曜日のフードバンクはクリスマスイベントだろう?何かすることがあれば、言ってほしいんだ」
片方の肩にサムソナイトの黒いリュックを引っかけていた。上品なツイードの上着に襟元には暖かそうな水色のニットのマフラー。
そういえばこの人、最近身なりが良くなった。
いつ頃からだろう?そういえば、一緒にクラブXに行ったのはもうだいぶ前のことだった。
ブラルロ?そうなのかもしれない。でも、そうなの?
ただの学生が、ブラルロを普段着にしているって、どうしたら可能なの?
「わかった、僕がそのロバのぬいぐるみを着ればいいんだな」
クリスマス劇の話題は楽しかった。去年はアニタの兄のドメニコがロバを演ったらしい。ロバにも台詞があるのは珍しい脚本だ。「みんなに台詞を1つづつ言わせるようわたしが考えたの」アニタが言った。
丁度車同士がすれ違おうとして、歩道の側に寄ってきた。俺の右手はそっと彼女の肩に触れた。あまり何も考えていなかった、劇の話題で楽しい気分だったし、ごく普通に彼女を車から遠ざけようとしてとった行動だった。
するり。
アニタはその腕の中からするりと離れてしまった。俺の手が空を切る。「それでね、去年は食堂のおばさんが・・・」話を続ける。俺はあらためてアニタににじり寄って、もう一度肩に手を置こうとした。
するり。
細い肩がまた離れていってしまう。俺は力なく右手を降ろした。もうアパートも見えている。
「ありがとうヴィンチェンツォ、もうこのあたりでいいわ、アパートはすぐそこだから」
やるせない右手をなんとかするために、左肩にひっかけていたリュックを両肩に背負う。「ちゃんと家の前まで送るよ」
冷たい向かい風が吹き付ける、アニタはカーキ色のコートの前を両手でしっかりと掻き合わせた。手袋をしていない。俺は自分の最近ブラルロで仕入れた皮手袋を脱いで彼女に渡した。これも拒否されてしまうだろうか?
ちょっと戸惑ってからアニタは手袋を受け取ると素直に両手にはめた。ぶかぶかだ。
こちらを向く「ありがとう、暖かいわ」少し辛そうな顔をして言う。どうしてそんな顔をするのだろうか?俺は何か彼女にまずい事でもやってしまっただろうか?
アパートの前まで来た。「アニタ、俺なにかまずい事でも言ったかな?」見上げる目は緑色の深い沼だった。「どうしてそんなことを聞くの?」「それは君が・・・」
アニタは手袋を脱ごうとした。俺はその両手を左手で掴んだ。
また辛そうな顔で見上げられる。思わず右手で顎をとった。「ヴィンチェンツォ」囁くように名前を呼んだその半びらきの赤い唇に、俺は思わず口づけをしていた。
私たちはキスに疲れたかのように、アパートの前の石段に座り込んでしまった。かれこれ20分以上はキスを続けていたように思う、貪るように。知り合ってからのこれまでの長い年月を塞ぐかのように熱心にお互いの唇を貪った。私はまだ彼の手袋をしたままだった、返さないといけない。手袋を脱いで渡そうと彼を見た。
どちらからともなく、また口づけをする。色白の彼の顔の中で、唇が赤く腫れぼったくなっているのがわかる、きっと私も同じだろう。ツイードのジャケットの胸の内側にポケットが見えた、素直にそこを触りたいと思った。手袋を掴んでジャケットの内側に手を入れてポケットにねじこんで、そのまま、彼のセーターにすがりついた。
彼の体温は思っていた以上に熱かった、いつもそうなのか、それともこんな風にしているからなのか。彼の両手が留めていなかったコートの前合わせからするりと入ってきて私を抱きしめた、力強く。
なんで私たちはもっと早くからこうしていなかったのだろう?
満ち足りた気持ち、心の中がこれ以上なく暖かな光で照らされている気分、でもその隅に小さな密かな暗がりがあった。
「あいつを追うな」ドメニコ兄さんの声が小さな影となって心の真ん中に転がっていた。今こんなに幸せなのに、それは気にしないといけない事だろうか?あらためて息ができないほどきつく抱きしめられた。軽く、ほんの軽くだけど、首筋に彼の唇を感じる。次は耳たぶだ、軽く触れたあとに、やんわりと唇で齧られる。頭がくらくらしてきた。お互いのセーター越しにもはやどちらの体温かわからない状態で熱を感じる。
ああ、もうどうしたらいいの?
薄目を開けると、彼の瞼はしっかりと閉じられていた。首にしがみつく、なんでそんなことをしたのだろう、しがみつくついでにジャケットの襟元を引っ張った。
ブラルロのタグ。
いけない、このままではいけない。
彼女は、俺の腕の中でとろけるようにしな垂れていた。いろいろな花の香りが混ざったちょっとした花束のような香りがする。あらためて引き寄せると、小ぶりの胸が俺の胸に押し付けられて、心と身体がかき乱された。この後、アパートの部屋に誘ってくれるだろうか、それとも俺は無理やりにでもついていってしまうのではないだろうか。
軽く耳に口づけをした、シンプルな金のピアスを唇でなぞる。腕の中で少し彼女が悶えたのを感じた、首に取りすがられ、ジャケットをきつく握られた。そうもっと俺のことを掴んでほしい、君との間に隙間が一切無くなるくらいに。
そう願ったところで、ふと身体を離された。
彼女の両手が襟をなぞるように降りてくると、俺の胸に当てられた。ほんの少しだけさっきの余韻で息を弾ませている。
「ヴィンチェンツォ、ごめんなさい」うつむいてやや掠れた声。
「ごめんなさい、こんな事をするつもりじゃなかったの。」
俺はいつでもこんなことがしたいと思っていたのに。
「ヴィンチェンツォ、ごめんなさい、帰ってちょうだい」
「どうして謝るの?」
もう一度口づけようと顔にかがむと、するりと、離れられた。お互いの体の間を冷たい風が通っていく。少し前に肩を抱こうとして離れられたのと同じ空気が戻ってきていた。
アニタの目に大粒の涙が浮かんだ。「ごめんなさい」引き寄せようと右手で顎をとると、彼女の両手がそっとその手をつかんで離した。
ぽろりと涙がこぼれる。
俺はどうしていいかわからなかった、女の子に泣かれたことは過去に何度もあったけれども、泣かれて俺まで泣きたい気分になったのは、はじめてだ。
「アニタ、ごめん、アニタ、僕も謝るよ。急にこんな・・・」「あなたのせいじゃないのよヴィンチェンツォ」アニタはすっくと立ちあがった。見上げるともう一粒涙がこぼれて、石の階段の上に小さな染みを作る。
「ごめんなさい」そう言うと振り返りもせずにアパートの中に走り去った。俺の両手の間を冷たい風が吹きすさんでいく。
アニタはアパートの部屋のカーテンの隙間から、玄関から立ち去らないヴィンチェンツォを見続けた。しばらくは入口の石段に腰掛けていて、そのうち立ち上がると、マンションを見上げて立ち尽くしていた。幸いどの部屋が私の部屋なのかは知らないから、眩しそうな目でアパートを見上げて様子をうかがうだけだ。
窓に反射する日の光を遮るようにかざされた、大きい彼の手を見ると、背中が彼の手を思い出して、身体が火照る。あの手が私の身体を軽々と掴んで離さなかった時間を思い出す。
もう10分も彼はそこに立っていた。きっと私が戻ってきて何か言うのを待っているに違いない。北風にジャケットの前をあわせて背中を向けて立っている。アニタは誰かに心臓を掴まれたような切ない気持ちでいっぱいになった。戻って行って、彼の手をいますぐとるべきではないか、やさしく部屋にあがるように言うべきではないか、そこにあるベッドの上でさっきの続きをはじめるのが良いのではないか。
ヴィンチェンツォは立ち去りがたい様子で玄関の前をてくてくと丸を描いて歩きはじめた。胸元からスマホを取り出して耳にあてる。誰からの電話かしら?
するとどこからともなく、小豆色の立派な外車が玄関の前に止まった。このアパートの住人にあんな立派な車に乗っている人はいないだろう。アニタは小首をかしげた。助手席のドアが開く。
みたことのある黒いスーツに青い目の男が降りて、ヴィンチェンツォに何かを言った、そして恭しく後席のドアを開ける。ヴィンチェンツォは自然な感じで後席に乗り込んだ。静かに車が立ち去る。
頭の中で何かがチカチカといっていた、それは、何だかわかっているだけど、わかりたくない何かだった。アニタはクッションを手にとって、抱きしめてソファの上で小さく丸くなった。検事のドメニコ兄さんの声が心の中でよみがえる「あいつを、追うな」
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