ヴィンツェンツォが出来上がるまでの一考察~17
父さんの書斎に思い切って電気を付けた。一瞬目が眩しい。
アニタを家まで送った後、駐車場から徒歩で家まで歩いて帰ったので、もう時計は0時ををまわっていた。0時25分、今も正確に時を刻み続ける父さんの時計。
帰りの車の中ではアニタがしきりに様子を心配してくれた。クラブ通いと授業の課題で寝てないんじゃないか、ちゃんと食事はとっているのか、こんなにお金を使ってしまって大丈夫なのか。俺は彼女に好きなようにしゃべらせながら、時々不必要にアクセルを踏んでは韓国語で悪態をついていた。
『悪い想像が当たるなんて』
アニタの家に着いて彼女を降ろすと、顔も見ずに車に乗った。悪いと思ったけど、今の俺のざわついた気持ちのままでは彼女を気遣うことは難しかった。
ランボルギーニのために借りてある駐車場から家までは徒歩30分くらいだった。その間に頭を整理するように努めた。
時計をぎゅっと握ってからズボンのポケットに戻し、くたびれた父さんのデスクチェアーに腰を下ろす。
掃除はしてあるが、置いてあるものはいじっていない。棚にうず高く積まれたおびただしい紙。読む目的なのかそれらの紙をただ抑えるためだけなのか、紙の束ごとの上に積まれた専門書。デスクの前の紙の束と束の間の細い空間にいくつかの書籍。掃除した時はなるべく細かいものを見ないようにしていたせいか気付いていなかった「初級韓国語」の本。
思わず涙が溢れそうになる。取り出して、奥付を見ると俺がこの家に来て間もない頃の発行だった。父さん・・・。
ぱちぱちと瞬きを繰り返し涙を流さないようにしながら、引き出しをゆっくりとひとつひとつ開けて行った。
たくさんのくしゃくしゃの領収書とCASIOの計算機が入った上の引き出し。領収書の日付は10年前のものすらある。父さんは何でもかんでも経費に回す人じゃないと思っていたけど、そのとおりだった。
2番目の引き出しには膠色のきちんとしたフォルダーが入っていた。フォルダーのゴムバンドを外して中をみると、事務所との契約書のようだった、金額のところが空欄になったままなのが父さんらしい。フォルダーの下からは、何時の物だかわからない煙草とライター。父さんは煙草は吸わない人だとばかり思っていた。ライターだけつかんでポケットに突っ込んでから、引き出しを閉じる。ぷーんと煙草の葉の香りが立った。
最後の一番下にある引き出しを開けた。書類の裏が書き損じのメモになっている大量の紙。紙の中を漁るが、出てくるのは紙ばかり。
「父さん、とうとうパソコン使いにはならなかったな・・・」夜の静けさの中に呟きが吸い込まれていく。
何もなさそうだと閉じようとしたその時、ちょっとした違和感に気付いた。紙をめくりなおして引き出しの底を確かめる。一旦引き出しを閉じてまた開ける。
もう一度手を突っ込んで、引き出しの底板に指をかけた。
ガタリッ。指先が手ごたえを感じた。
2時間ほど目を瞑れていただろうか、朝の冷え込みがきつくなってきていた。
明け方まで書類に目を通していたせいで、目がしょぼしょぼだ。熱いお湯を頭のてっぺんから浴びて、顔をごしごしとこする。疲れているように見えてはいけない。思い切って蛇口のメモリを冷水に回した。足元をじたばたさせたくなるくらい冷たい。その冷水に顔を向けて今日やるべき事を頭の中で復習した。
アニタには既に、風邪を引いて今日は学校を休む事、それを教授に伝えて欲しい旨携帯からメッセージを送っておいた。
今日やるべき事の中に、きちんとした食事も入れておいた。トーストを焼き、フライドエッグを作りベーコンを炙る。父さんのデロンギでエスプレッソ2杯分を入れて、一気に胃に流し込んだ。空腹で胃が縮こまっている状態は、大事な事をやるのにふさわしくないだろう。
母さんの庭木に水をやる。風に乗って飛んでくる飛沫がシャワーの水より冷たく顔に打ち付ける。さらに目が覚める、丁度いい。
もう一度エスプレッソを入れる、ゴウゴウと大きな音を立てるマシンから、父さんがこだわって選んでいたハワイ産のコーヒー豆が香り立つ。うっかり気を許すと家族の食卓を思い出す香りなので、慎重にしかめ面をしながら飲んだ。
ダイニングテーブルに置いた父さんの時計が9時を指すと同時に、携帯を取り上げた。
クラブXに行った最初の日に腕を通した明るい青のスーツを着てから、意を決して両親の寝室に入った。父さんのクローゼットを開けて、いちばん上等そうな深い紺色のドット柄のネクタイを拝借する。見回すと、母さんのガウンがベッドカバーの上に置かれたままで、父さんの読みかけの小説がベッドサイドテーブルの上に伏せて置かれたままだった。少し埃をかぶっている。驚いたことにそのベッドサイドの読書ランプが灯ったままだ。
この部屋も掃除しなくてはいけない。ずっと避けてきたけど、やらなくてはいけない事という自覚が出来た気がした。
チャイムが鳴ると、叔父の秘書がスーツ姿で立っていた。「お迎えにあがりました」
「お似合いですね、ブラルロ」
叔父の秘書がプントの運転席で言った。やっぱりブラルロってわかるのだろうか?俺なんか着ていても何がブラルロなんだか言われないとわからないのだけど。
褒められたのだろうがちょっと居心地を悪く感じてスーツの袖から近いところをつまんで、左右ちょっと引く。
その癖があるのをブラルロで指摘されて、カフスタイプのシャツを諦めた。曰く、袖口を引く癖のある人は、よくカフスを失くしてしまうらしい。代わりに選んだ貝製の濃厚なボタンが袖口から覗く。
「大変趣味がおよろしいと思いますよ」
秘書が言った。
「旦那様もブラルロのスーツを時折お召しです」
服って見ている人はこうやって見ているものなのだろうか。クラブ巡りをするために、一連のメンズブランドを巡って、小さいメゾンながらも一介の学生に対して一番対応が良く、そして一晩でスーツを仕立ててくれるところが気に入っていた。でもそんなに違うものだろうか?
「長く着られるのでとても良いものだと思いますよ」
心を見透かされたように秘書が微笑んだ。
プントはするりと叔父の家の駐車場に入り込んだ。
今日も、叔父は細長い書斎の濃厚なデスクの向こうに手を合わせて座っていた。なんかこうこの部屋と一体となっているかのような、叔父が部屋全体だし、部屋全体が叔父なそんな圧力を感じる。それは明るい昼間の光が窓から差し込んでいても変わらなかった。
暫く会いに来れず無礼をしたことを詫びて、毎月の学費と生活費の支援にお礼を言う。
「元気そうだな」
椅子をすすめられたが、座らなかった。
少し潰れた声で叔父が言う「話があるそうだな?」
「はい・・・」
俺はポケットに手をつっこんで、父さんの時計を握りしめてから、叔父のデスクの上に置いた。
「これは・・・」
叔父は両眉を上げて一瞬驚いた顔をした、まさか俺が持っているとは思っていなかったという顔だ。
「ちょっと待ってくれ」
デスクの引き出しを開けて何かを確認する。
ちらりと見えるきっちりと片付けられた引き出しの内部。父さんとはだいぶ違うや。父さんの時計はそこにあったはずのものらしい。あれだけ整理整頓されていれば一目瞭然だろう。
叔父は顔を上げると目線だけで離れた入口のほうに立っていた秘書を呼んだ。
「この部屋への出入りは・・・」
「旦那様と私と掃除の者だけです」
「そうだろうな」
「あ、ですが時折パオロ様が旦那様にお会いになりたいと入られることが・・・」
パオロ・・・あいつだ。
叔父は時計を手にするとデスク前のソファーセットを指した、「そちらに座って話そう」
「これは、お前のものだヴィンチェンツォ、大事に持っていなさい。あいつが家を出る時におやじが渡してやった唯一のものだ」
あいつというのは父さんのことだろう、おやじとはお祖父さんのことだ。
「別の世界で生きると言った、だからおやじがその文字を彫らせたんだ、わかるかね?」軽く裏蓋の小さな文字を撫でてからヴィンチェンツォに手渡す。わかるってその刻印の意味が?意義が?
時計を受け取ると同じように親指の腹で裏蓋の文字をたどりながら言った。
「おじさん、この時計はパオロという人物が僕が通うフードバンクの客にあずけて、渡そうとしてきたものです。一体、どういうことでしょうか?」
秘書が香りの良い紅茶を入れたティーセットを持ってきたので、一旦会話が途切れた。
叔父はすぐにはお茶に手をつけず、上品なツイードのジャケットの襟を正した。
「パオロ、彼は、わたしの養子だ。いやいや、君のような血の繋がらない養子ではなく、わたしと亡き妻の間に子供ができなかったので、すぐ下の弟の次男、甥を数年前養子の籍に入れたんだ」
それで、あの羽振りのよさそうなチンピラっぷりか。
「そのうち会わせよう、お前たちには仲良くやってほしいからな。なにせ従兄弟同士だし年のころも同じだろう」
仲良くできるかよ、俺の中の誰かがちっと唇を鳴らした。
「あいつの身辺は、見張らせているんだがな。こんなことをするとは・・・」
俺が聞きたいのはそんなことじゃない。
「ひとつ教えてください、おじさん」少し姿勢を正した。
「何故叔父さんが父さんの時計を持っていたのですか?警察からはあの強盗の日に盗られたと聞いています、それを何故おじさんが?」
繊細なティーカップをごつい緑色の指輪をはめた手で口にもっていくが、飲まずに言った。
「復讐のためだ」
復讐、その文字は俺の心の中にズドーンと落ちてくると、嫌な感じに大きな音をたててドスンと着地した。
そう、着地したんだ。
その日の叔父との会話は、日が傾いてくるまで続いた。
主に父さんの仕事について、色々と教えてもらった。父さんはお祖父さんや叔父さんの稼業(何ではあれ稼業)から離れたいと考え、弁護士になって家を出た。
それは決別のはずだった、この時計の裏蓋に掘られた“Chi si contenta gode、心の満たされる人は富にも勝る” からも明らかだった。
弁護士事務所のチッコーニさんは叔父の古い友人だった。その事務所のパートナーとなり、所謂マチ弁をやっていたが、たまにチッコーニさんのたのみで、ミラノの外で起こる叔父さんの仕事の跡片付けを手伝っていたらしい。
引き出しの底の隠しスペースから出て来た書類、俺は全て読み終えて叔父の前に座っていた。
だから、叔父の稼業についても、だいたい想像がついていた。
だが、想像がついていなかったのは、その規模だったけど。
「パオロには悪気はなかったろう、そういうイタズラの様な事が好きな奴なんだ、許してやってくれ」
悪気のないイタズラと・・・。パオロは俺に時計を渡して何を期待したのだろう?おどかしてやろうと?それとも復讐?
「お前のことは一度話をしたことがある、同じように養子でカサノ家の系譜にもう1人従兄弟がいるということをな」
「パオロに言われて時計を渡してきたフードバンクの男は、昼間チンピラに追われていました」
「パオロの身辺は見張らせてある、おそらくだが、誰かがそれを止めようとしたんだろう」
「チンピラですよ?胸に銃を隠し持った」
「末端ではいろんな奴が働いている」
何の、末端・・・。
「少し、待っていなさい」
そう言って立ち上がると、叔父は部屋を出ていった。
もう夕方だ、日差しにオレンジ色が混じってずいぶん傾いている。叔父さん、突然押しかけてこんなに長い時間を割いてもらっている、きっと忙しいだろうに。忙しいって、何に?
叔父のデスクのあの引き出しを開けると、他に何が整理されているのだろう?父さんの引き出しの隠し棚を思い出す。
引き出しの中を覗きたい衝動を、ポケットの中で父さんの時計を握りしめながら耐えていると、30分ほど経っただろうか、叔父が戻ってきた、先ほどまでとは違いジャケットからゆったりしたニットの上着に着替えている。別の部屋で誰かに会ってきたのだろうきっと。
「うちの者ではないが、パオロが独自に雇った配下で、日曜日にひどくやられた奴らがいた。安心しなさい、彼らはもうお前の行くフードバンクは襲わない」
「どういうことですか?」
「お前が知りたいことも見当がついている、まあ座りなさい、私にも考えがある」
俺が知りたい事、それは・・・。
「約束しよう、お前が通うフードバンクと学校は安全だ、お前の家も安全だ」
叔父の秘書がやってくるとしばし沈黙を嗜む。ティーセットが下げられて、豪奢な1本脚クーラーに浸ったシャンパンとグラスが載ったカートが届けられた。
叔父は立ち上がって軽くポンと言う音をたててコルクを抜いた。カートからシャンパングラスを2個とりあげるとそれを持ってまたソファーに座る。
「特にフードバンクには監視をつけよう、普段からよからぬ奴らも出入りしているようだからな。お前はフードバンクで彼らに会うことになる、敵対せずにきちんと対応してやってくれ、わたしの直属の部下たちだ」
「はい」
「シャンパンを飲もう、わたしは嬉しいんだ」
「は・・・い?」
「わからなくていい、今はただ1杯つきあってくれ」
まだ日がさしている時間からシャンパンか。優雅だな。
黙々と叔父はシャンパンを注ぎ、俺たちは何も言わずにグラスを掲げあった。
「お前の未来に、ヴィンチェンツォ」
「ありがとうございます」
俺たちが支援しているフードバンクに、ミラノ市から直々の予算が振り込まれたのはそれから数日経ってのことだった。
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