短い言い訳

「前澤お年玉」に終了間近にRT参加した。

そろそろ、「後澤」「やや左澤」「気持ちちょっと前澤」あたりの偽アカウントからDMが来る頃ではないかと思う。

小生、アタマにドがつくほどのケチっぷりなのだが、小さな画面の向こうにぶら下がった金にがっつく感じが嫌だと、初日2日目は牽制。

「あーそういえばそんな企画もあったんだ~」と知らぬ顔でいま知りましたふうに最終日にRTしたわけだが、いかにフォロワーさんたちのTLのなかで見つからないかを画策していた6日間だった。深夜の3.4時はいかにも「バレないように」感が強く、見つかってしまえば恥ずかし度が高い。今思えば初日に「いやぁ、祭りっすから」のテンションと雰囲気が漂っているうちにしれっとRTしておけばよかった。見栄を張って機会費用が高くついた。

RTプレゼント企画といえば、最初の方にRTした人をどうやって調べるのかと長らくの疑問だった。RTしたアカウントを参照するとそのときの最新RTがずらっと80ほど並び、それより以前は埋もれてしまうのはご存知のとおりで、さらにRT数が増加すればそれらもまた下のほうに埋もれていずれは参照できなくなる。

これに気づいた私は、締切ギリギリの1分以内にRT参加して、なんとかこの参照できる範囲に留まろうと画策した過去がある。まるで懸賞ハガキの片隅を小さく折り曲げるような可愛げのある知恵だったが、一度だけ功を奏した(と自分では思っている)。

『けものフレンズ2』の先行上映会キャンペーン企画がそれである。しかし、この悪あがきが要因かどうかは検証のしようもない。そもそも上映会への期待が低く定員割れしていたんじゃないかって、人格Bはその不人気っぷりさを笑う。


初速から伸びないとまずいRT企画

自分よりあとのRTで埋もれてしまう案件に話を戻すと、仮に、最後方の数名しか認識されないのであれば、当選に期待している参加者は締め切りまでだんまりを決める単なるチキンレースになってしまう。それでは、広報としては周知につながらず企画立ての意味もない。企画スタートからRTが増加し、爆発的なエクスプレッションを稼ぎたい狙いと矛盾する。

RTする人たちはそこまで考えずに参加している人が大勢だろうが、「当たらないのは自分のアカウントが埋もれたから? 次はギリギリにRTしようか」と考え出すと、これまた拡散に歯止めがかかる。事実、私は締め切り間際にRTすることが多くなっている。

ほんとは落選したことに(あるいは当選したことに)直接的な要因など何もないのだろうが、人間は信じたいものを信じる質であり、自分の閃きを大切にしたいものである。

もしものもしも、早い段階でRT参加しても当選した状況証拠のようなものがあるとまた違ってくると思う。少なくともそんな実体験が私にもあれば、もう二度と懸賞ハガキの四隅を蛍光ペンで塗りたぐるような真似をせずに済むし、”敬虔”なアーリーアダプターとして早めの拡散に協力して、キャズムを超えるお手伝いだって買って出る所存である。


人力による抽出

して、前澤お年玉の当選者は1000人である。定員1000人。そもそもが参照できる範囲を越えている。ではどうやって最初の方のRT参加者をサルベージするのだろうか。tweetdeckでも駆使するんだろうか?

私が想像しているのはこうだ。

企画の協力スタッフが20人くらいいて、1人ひとりがRTを参照してその瞬間に確認できたアカウントをチェック(記録、ブックマーク)していく方法を元日から7日間かけて毎日行っていたんではないか。そうすれば早期RT参加者もサルベージができ、全体的に当選該当RTの分布もバラける。1人のノルマは7日間で50程度。カブりを想定しても大した数ではない。しかし、ものすごくアナログで原始的である。

ほんと、どうやってるんだか(飽きた)


百万円なんて大金じゃない

元日の自分に言いたい。

金にがっついてる感じに周りに受け取られると嫌だ

──と思った自分に言い詰めたい。小一時間言い詰めたい。

「紛れもなくお前はがっついてる」と。

そして、こう続けたい。

100万円はがっつくほどの大金じゃない。

「100万円あれば始められること」をまだ始めてないその御前のメンタルを見直さないと、始まってもおそらく結果は奏しない。

始めないと始まらないが、始めるのが目的ではない。

きっといまヒューリスティクスが大きく前に傾いている。落選のショックは実際には損失ではないのだが、大なり小なりの「損」を脳内に与える。人間は損失回避からなかなか抜け出せない。

どうせ運試しだった、夢だった、でまた何も始めない。

ずるずると続くナアナアの生活を終わらせるタイミングである。


短くないじゃんって苦情について

300字くらいを「長文乱文失礼しました」で締めたやつを見かけると、

ハア? 長くねえじゃんバカ、長いと思ってるならいらないところ端折るなりしなさい、乱文だと自覚してるなら推敲しなさい。読み手に甘えるな」と怒る人間だが、時代は1000文字を超えるとめちゃ長いらしい。

300文字が長文になる時代がもう目の前まで来てる!(ぺこぱリスペクト)

しかし、長いか短いかの判断材料は、単純な文字数で測るべきじゃない。

30歳の首相は若すぎるが、30歳の大学生は行き遅れていると多くの人が思うように、あくまでも相対的なものの見方に過ぎない。結婚式のスピーチと文庫本の原稿を比較したってしょうがない。意見の陳述にはそれなりの、noteの記事にはそれなりの、だいたい見合った文字数がある。

しかし、想定以上に記事が長くなってしまったのは事実である。そのことに対しての言い訳をするなら「気分がノッてきた」から……と日記には書いておこう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?