「元ネタ」を持ってくる恐怖と報酬
何かしらの元ネタについて話すのに躊躇してしまうときがある。
前提や詳細を整えるには文字の制約があまりあるうえに、文脈も確認せず行間も読まず検証も怠り自身の立ち位置を一切わきまえずにハナから謎の剣幕で向こうの発言の意図すら平気で曲解して自身の発言にすら無責任を押し通すような人がうじゃうじゃいるTwitterという場で、「元ネタ」について言及したり糾弾したりする危険性ってあるよね、という話。
『星合の空』のEDダンスが騒ぎになっていたときに書き始め、悲しみのあまり断筆に至った当記事だが、「元ネタ」をめぐる似たような事例が先日起こり、近い未来にも(どうせまた)起こりうるだろうことを考えると、さっさと書いて吹っ切るほうが得策である。そんな気持ちで今日こそ書き終える所存です。
「元ネタ」で作品を吊るし上げる恐怖
まず、苦情/糾弾は「オンステージ型」と「オフステージ型」に分類されていて、Twitterに書き込む行為はオンステージ型と言えます。
以前もそんなことを書いた。好きなテーマなんでしょう(他人事)。
過去には私もネガティブな指摘──とてもうまく昇華させたとは思えないただの後追いの作品──を、元ネタを参照してTwitterに書いた経験がある。オンステージ型クレームであるが、支持を募るような意識がなかったと言えば嘘になる(つまり誰かに見つけてほしかった)。
一人歩きする恐怖
一度ステージに上がってしまった議題は、もはや自身のコントロール下にはない。レールに乗ったトロッコのごとく一人歩きしてどこまでも行ってしまう。誰かがトロッコのレールを切り替えるだけで、簡単に暴走し、科学した元ネタも爆弾に変わる。まるでニトログリセリンである。
ポジティブに受け取りポジティブに言及したはずの「元ネタ」が、誰かの手心を加えられ、”明晰な文化倫理観”のもと「ネガティブな糾弾」に変わってしまう可能性が消し去れない恐怖。これが怖い。
・「○○のアクションって△△でやってたやつだね。うまい使い方だね」
↓
・「○○は△△からトレスしてパクってる。盗人はみんなで成敗。徹底的に叩くのが正解!」
うん、端的に地獄だ。
「元ネタも知っているし、上手に料理した経過もわかる。審美眼持ってる私どやあ」がやりたくて、文化的資産の称賛という「報酬」が欲しくて、悪意や見誤った正しさが蔓延した<世界>に元ネタを提示することで起こりうる望まない事態。想像するとキーボードを打ち込む手がすくむ。きっと「井の中の蛙、自意識過剰」なのでしょう。
いきなりオンステージ型で私刑断罪はやめないか
言いたいことはコレに突きます。
「ツイート消すくらいなら最初から…」は結果論なのでそんな批判は無視してもよいが、しかしTwitter上に表明する前に、まず直接の交渉から始める選択とかを吟味したりしないのかと。経緯の詳細を検証したあとになって自分の側に不手際があったときに、大衆はもう考えを改めたりはしないんですよ。
大勢は信じたいものしか信じないんだから。検証動画添えて「事実確認中だから凸らないで」なんて言ったって、信者共よ集い給えー、を望んでるとしか聞こえませんよ。
「問い合わせたけど、一向に返答がありません。いまだ許せません」の一言があれば、戦う意志を尊重()したいなと思えるんですが、いきなり「ちょっと聞いてよ皆の衆」っておおごとにして無視できない状況つくるの、なんか乱暴だなあって思ったりする次第です。
Twitterで起こりがちな逆スラップ訴訟(なんだそりゃ)、2019年のなんだかなあ…と、2020年のなんだかなあ、といった話でした。
元ネタ言及の嗜み
上の話は、元ネタの保持者(元ネタにされた側)がTwitterを使って公開の場で相手を訴えることへの不安点でした。
ここからは、第三者が元ネタをパクリだサンプリングだとどうこう言う問題へシフト。
「元ネタ活用」への評価が観客によって千差万別なのは、いまに語ることではないですが、どちらにせよ第三者である観客にジャッジはできず、どちらかにベットする他ない。アリかナシかを決定するのは権利者である。そこを履き違えるとまずい。立ち位置はわきまえたい。
※ここでの「元ネタ」には、創作において着想を得た作品郡、影響下、参考、パロディ、まんま使いなど広義かつ全体を含みます。あれがあったからこれが作れた、というやつですね。
元ネタ言及は批判のみではない
元ネタへの言及は、ただ単に「主と從」の事実関係(またはその推測)を伝えるだけでは終わらず、「これこれが元ネタになっているが」から出発して、元ネタの昇華としてそれがアリかナシかを個々人が審議し表明している。作品における元ネタの使い方を、ポジティブに受け取ったかネガティブに受け取ったか、の表明とも言えましょう。
「もうこの世にはオリジナルなど生まれようがない」論を笠に着るつもりはないにしろ、しかし、基本的には模倣が創作の出発点という理念を支持しているし、「影響」を常に悪い意味では捉えることもない。恥ずかしいと思うとそれこそ手が止まる。厚顔無恥はダメだが。
そのうえで、創作ワナビーとして、ポジやネガを自分のなかに定めたいと。
つまり
サンプリングにはクリエイティビティがある
と、私も思います(も、ってなんだよ)。
サンプリングには産みの苦しみがないと評されることも多いですが、あまり使いたくない言葉で反論するなら、サンプリングも”一種の”クリエイティブであると。
「インプットさえクリエイティブ」と言ってアウトプットから逃げ続けた私が言うんだから信憑性もあるでしょい。それに、元ネタを意図的に散りばめた作品を観たときの、あの文化的教養を試されている感覚、楽しくないですか。好事家冥利につきませんか。
でもこれはパクっておしまいバレなきゃOKって話じゃない。
「合言葉は『パクろうぜ!』」という大見栄も皆さんの頭から消えてきている昨今、私もパクリは良くないと思ってますよ。
https://tower.jp/article/interview/2003/12/25/100038881
クリエイティビティに反するパクリ行為
パクリだなんだと批判されてしかるべきは、元ネタの輝きから脱却できていない──元ネタの美味しさへの依存度が高い作品(や演出)であって、元作品にあやかっているだけの虎の威を借る狐のような作りものには、クリエイティビティもリスペクトも誠実さも感じない。これも「君が感じないからなんだってんだ」って話の範疇でしかないのですが。
元ネタを知られてしまうと困るのが「パクリ」
元ネタを知られなきゃ機能しないのが「パロディ」
元ネタを知られなくても成立するのが「オマージュ」
そんな言葉もある。
類似点が多いこと、原型に限りなく近いことなどの濃淡の部分はアリナシの判断材料に大きく作用するけれども、最終的には(究極的には)”まんま使い”でも、
活用の発想が面白ければそれで良いとさえ思います。
こうして安全圏からつらつら書き連ねた身勝手で軽薄な美意識を目にして、クリエイターの方々を鼻白ませてしまう失礼も自覚しないでもない。いや、している(日本語が怪しい)。
穏やかに……
引用だろうが、翻案だろうが、サンプリングだろうが、外野は外野らしく立ち位置を守ってふさわしい行いに努めようよ、という綺麗事の押し付けでした。
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