強くなることが少し怖い
少しばかりTwitterでROMっていた。
いつまでもくよくよしていてはどこにもいけないなと思った。
追悼のイラストや追悼にかこつけた顕示欲が流れていくのは一種のお決まりのパターンで、人間性とか醜悪さについて怒りと蔑視を向けるのも、もう今更で、そんな気持ちさえ改めて育てる気がしなかった。
「川崎市で有名になるにはラッパーになるか人を殺めるか」なのだが、Twitterではハッシュタグで偲べばいいだけなので、簡単だ。
追悼の気持ちというのはそれぞれがいろんな形で持っていると思う。が、過剰に演出ばったツイートなんかはするものではないとも思っている。ぽつぽつと氏との思い出を語ればそれでいいのではないか。
すかさず飛び出す「涙が止まらない」というツイートが嫌いだった。
心底悲しいと、心が弱っていると行動に移せないことがある。
それが私のなかではツイートだ。ツイートが完了するまでには段階がある。実際に発生した言葉が文字に起こされて投稿されるわけじゃない。
指を動かして文字を入力して、「ツイートする」を押さないといけない。誤字を発信してしまわないようチェックもするだろうし、読みやすいように改行にだって気を遣う。
そんなことをしている間にどこかでふと自問するはずである。「いまこんなツイートを世に放つことがやるべきことなのか」と。
それは世間体とかプロモーションとかセルフブランディングとか「打ち込んだ自分という人間」がどう見られるかの話でもなく、自分のなかにどんな作法を持ち合わせているか、といった話だ。
いまは悲しみのツイートを間髪入れずに放り込むのも、珍しくない。むしろ「乗り遅れるな」という勢いすら浮かんで見える。
そういった行為がどれだけ嫌われたものであるのかとか、異常だと思う人がどれだけ居るのかわからない。もしかしたら少数側になっているかもしれない。古い人間だと揶揄されてもしらない。勝手に言ってればいい。
「偲ぶ」とは「忍ぶ」ということなり
そういった語源だから、大っぴらに誰かを偲ぶという行為は似つかわしくない。隠れて、粛々と行うものだ。
というのはいま勝手に考えたホラだ。
人の偲び方にまでケチをつけるのは大人げない気もする。当人との距離もそれぞれだ。ショックの大きさと立ち直りはわかりやすく比例しない。
自分も寂しいなあとか表明している手前、誰かにとっては不真面目な態度をとっている。大方、そんなものである。
こんな文章を描いているお前だってネタにしてるじゃんとお思いの方もいるだろうし、3日経てばいいというのも自分の定規だからどの口が偉そうに他人を批判しているのかと書いていながら思う。これは整理だ。そういえば許されるのかと自問して書いている。答えは出ない。出ていたらこの文章はオープンに存在しない。
個人的に距離が近かったとか、思い続けた長年の憧れがあるとか、人生に与えた影響とか、悲しみには大小様々な差がある。
とりわけ高齢であれば、受け入れる容量があったりもするのを鑑みると、「役目」みたいなものが関係しているのかなと考えたりもするが、答えは出ない。人の人生を自分にとっての「役目」で測るのは、やはり失礼がすぎるものだ。失言。
志半ばというのは、年齢とはきっと関係がない。
強かさと乾燥してしまった何か
土曜日以降、ROMっていたのは半分がただの意地張りだったし、誰かが亡くなったときに訪れる「そろそろ喪に服す自分に酔っていないかの自己診断が必要な時期じゃないですか」との思考の横やりも自覚していたわけで。
(ただし何かに対して、怒ることも大切にしたい。人道とか道徳とか苦手だけど)
ROMってしまいたくなるほどにネットにあてたれたのは、訃報のショックももちろんあったけれど、同業者が投稿した「氏にはお世話になりました」みたいな、悲しんだツイートを投稿した3時間後には、「動画あげるけどなにがいいかな」とか、どうぶつの森にインした様子をツイートしたりとか、自分が出ている作品に関するツイートやリツイートをするとか。そういった普段どおりのTwitterの運営を行える心がひたすらに理解が出来なくて、「こんな異常な強かさを持ち合わせていないと戦っていけないのか……」と、死すら瞬時に乗り越えていくクレイジーソルジャーに辟易を通り越して、うすら寒さを覚えた。
とある作品のキャストに採用された際に「放送前には周知、視聴の促進を行うこと。イベントなどの広報が出した情報はRTすること」といった具合の規約があるのかもしれない。
喪に服した結果、契約違反で干されてはたまらない。そんな事情も、学のない頭で想像できなくもない。
いや、むしろ番組や事務所に頼ることなく自立する手段としてよく顔を出す策だったりもするかもしれない。どちらでもいい。こんなのはただの想像で、真相(事情)は私にはわからないのだし。
文明の加速は涙も吹き散らす
文明の発達を嘆くのは老害の特権らしくそれに甘んじる。
現代人の一日の情報摂取料は江戸時代の人々の一年分らしい。どういう研究結果でそんな結論が出たのかは知らないが、情報量は増えても容量は大して変わらないだろう。圧縮の技術は、すこし進化したかもしれない。
圧縮というか、削除といったほうが適しているかもしれない。忘れていったり深く定着させないことで次の情報用の容量を確保する。
飽き性の消費者が望んでいるからなのか、お客をどうにか繋ぎとめておきたいからなのか、ともかく、立ち止まることが許されない社会がいつのまにか形成されていたのだ。
経済が本来のスピードを失い徐々にストップしている現状の危機に思わぬところで話が繋がってしまった。人間はこんなにバラバラなのに。なんて、顔を覆いたくなるような皮肉だ。あるいは口も塞ぎたくなる皮肉だ。
いつまでも待っててくれない
私のなかで藤原啓治さんはホランドのイメージが大きい。声優に興味が出てきて、名前を覚え始めた頃に出会った人である。名塚佳織を認識したのも『エウレカセブン』で、そこから声優の演技でアニメを観る、という楽しみ方が自分のなかに出来上がっていったのだと、忘れていたことも思い出したりする。
考えると悲しくなる。考えなければ悲しくはならない。
それも一種、人間が編み出した知恵であり昔ながらの防衛本能と言えるかもしれない。空元気と何が違うのか、わからないけれど。
作品は残り続けると思っていくしかない。