サイカソウ 第2話・『毒の個』【前編】
一言に『毒』といわれ、すぐに人が思いつくのは一体どのような“モノ”だろうか?
粘着性のある液体か、それとも無色透明で見た目からだと害意こそ感じないが、体内に投入して始めて猛威を奮うものか――形状も色も人によって連想できるものは違うだろう。
だとして、だ。
今現在このプールに満ちているのも毒で、それはいかにも分かりやすすぎる毒の形状だった。
黒く濁り粘着性を感じさせるそれに、プールの底を覗かせる気など一切ない。
ただ底なし沼のように、蟻地獄のように下という概念さえいとも容易く消し去ってしまいそうだというのが、『彼』の感想だった。
暗く淀んだ毒の沼の中——名も無き彼はただただ先程までいた現世に想いを馳せていた。
ああ、なぜ僕は軽率にも死んでしまいたいと願ってしまったのか。
そう願ったがばかりに彼はここに堕ち、呑まれ、その魂をミキサーにかけられたかのようにぐちゃぐちゃにされている。
もはや自我などなく、自身の名前すら思いだせない――そんな中、覚えているのは現世を後にした後悔だけ。
帰りたい、そう思っても彼は帰れない。
なにせこの毒の沼は、蟻地獄だ。
延々にここへ捕らえられ、逃げ出せず、地上へは行けない。
例え今後悔したとして、全てが遅すぎるのだ。
自我はもう無く、ただただ嘆きの声すら出てこない。
毒を呑み過ぎたその喉は膨れあがり、呼吸さえ許さないが、それでも彼はまだ生きている。
そう、まだ彼は死ねない。
彼がきちんと死ぬには、ある手順を踏まなければならない。
それが、順にこの毒の沼の下へと降りて、延々と別の存在になり続けること。
つまり、彼という一個体は1人では死ねない。
彼が死ぬ前には、もう何千人という犠牲者がこの毒の沼に呑まれており、延々とその存在を変質させられているだけ――要は彼は自分自身に他の存在をくっつけたようなものなのだ。
だから彼は彼としてあり続け、死ぬのであれば、その変質をそこで止めることで初めて死ねる。
なら彼が死ぬまで後どれくらいの時が必要か――数秒などありえず、数時間、数十時間、数百時間、数千、数億とまるで那由他の先まで行けることだろう。
これから理解できる通り、ここに堕ちたものは皆、安息というものは訪れず、個が群となって形を成す。
だが、もうそれも終わりだ。
彼が死んだことを悔いた瞬間、この底なし沼の永続ループが切断される。
毒の沼は氾濫することなく、中心部へと渦を成しては、音を立てることもなく、1人の人間のような形を成した。
それゆえに、沼の底が見えることもしなかった。
容姿こそ見れたものでない。ただ泥を固めて人型を作ったようなその造形。
しかしそれこそ正に、延々と増殖し続けるこの毒の沼のルールに終止符を打つ現象に他ならず。
たった今、底なし沼にある『個』が降り立った。
その『個』が誕生した瞬間、この毒の沼は全て彼女によって利用されることとなる。
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