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【随筆】 欲望について



 欲望といえば、大抵の人間がまず性欲を思い浮かべるだろうか。
 小学四年生の時、クラスメイトの胸を触ったことがある。保健室の掃除中に二人きりで床を雑巾がけしている最中だった。相手は滅多に発言をしない、小さな女子生徒だった。
 触れた瞬間、「え。」という声が二つ響いた。彼女は戸惑うように笑い、僕は俯いていた。
 新卒にて京都で過ごした二年ほどの社会人生活の中で、唯一、休日のご飯や飲みに付き合ってくれた人がいた。同期の女性社員で、大人数での飲み会が苦手な感情を分け合える人で、会えば仕事の忙しさや目標や同期の愚痴を飽きもせずに話し続けた。お互いに異性との交際経験がなかったことも大きかったのかもしれない。「お互い頑張ろう。」と、ただ背中を押し合い、絵に描いたような男女の友情を成立させていた。
 年末で辞めると告げると、「君がいなくなると、ご飯行く人もいなくなっちゃうな。」と寂しげに笑った。仕事がどんどん忙しくなるから不安だと、続けてぽつりとつぶやいた。「またすぐに連絡するさ。」と言った。
 阿佐ヶ谷にアパートを借りて一か月ほど経った頃、実際に連絡をした。五日ほど空いた後に届いた断りの返信。相当忙しいのだろうという予測と同時に、その短さに不安を抱き『元気かどうかだけ教えて。』と送った。返信は来なかった。こんなはずはないと、何か事故でもあったのかと心配を募らせたが、それと同時に一抹の不穏も感じていたのだろう。ラインのスタンプ機能を使ってブロック確認を試みた。ネットでやり方を検索して、恐る恐る作業を進めていたはずだったのに、愚かにも本当にスタンプを送ってしまった。当然取り返しはつかず、返信は依然として来ないままだった。
 いても立ってもいられなくなり、数日後に京都へと向かった。日が暮れた頃に到着し、懐かしいというにはまだあまりに身近だった電車に乗り換え、彼女の住むマンションへと向かった。インターフォンを鳴らしても反応がなく、物陰に潜み、ひたすら待った。その途中、いきなりアイフォンがトラブルを起こし、勝手に電話をかけた。よりによって彼女だけに何十回もかけた。ロックすら開いていないのにと途方に暮れて、困り果てた末に、ポケットに入れたワイヤレスイヤホンが原因だと分かった。
 間違いなく帰るべきだった。当たり前だ。でも僕はいつまでも同じ場所に立ち尽くし、何かのタガが外れたように彼女の姿だけを待ち続けた。
 夜の十時すぎ、遅々とした足取りで向かってくる彼女の前に立った時、全てが終わった。あまりの恐怖に、彼女は薄く笑いさえしながらマンションへと逃げ込んだ。
 『どういうつもり?』
 その直後にメッセージが来た。電話したいと送ると、本当に怖いから話す気になれないと返ってきた。心配だったと送った。元気なので大丈夫ですと返ってきた。ブロック確認も電話も誤作動だったと嘘をついた。最初の断りでやり取りは終わったと思っていたし、忙しいことを察してほしかったし、何よりも、本当に本当に怖い数日だった。君のことが無理になったからブロックすると返ってきた。取り返しのつかないことをした、そうしてくれと送った。もう既読はつかなかった。

 十年後に成人式にて再会した女子生徒は、驚くほど当時の雰囲気を纏ったままだった。ブラックニッカの大瓶を振り回しながら奇声を発する輩を苦笑いしながら眺め、二次会で当時の仲良しグループと酒を飲みかわし、そのうちの一人と一緒に、僕の行った大学名を「すごいなあ!」と笑顔で褒めてくれた。彼女は僕の目を見ていた。僕は俯きながら、「そんなことないよ。」と謙遜を繰り返していた。
 京都から約二時間。翌朝の始発で帰ってきた阿佐ヶ谷のアパートでひたすらに眠った。何日も眠った。小匙一杯分の卑屈や言い訳は大いなる絶望に流し込み、『一週間、何一つ食べられなかった』という歴史を創り上げた。『それを覚えているだけ余裕があるんです』と、『本当のこと』も、ちゃんと僕は、自分に言い聞かせていた。
 彼女が「カッコいいよ」と言ってくれた瞬間を思い出していた。「君には何でも話せる」と言われたこともあった。彼女にとって自分は特別だと思っていた。彼女には自分という存在が必要だと思っていた。必要とされることに優越感を抱いていた。
 『なあ俺がいないと困るんだよな?』
 『そうだよな?』
 あの日、飛び乗った新幹線のトイレの中で僕はアダルトビデオを見ていた。何の正義感なのか、射精はいけないとすぐに画面を消した。あの時間はなんだったのだろう。
 あの瞬間は、なんだったのだろう。  

 誰かにとっての自分は、自分が願うほど大した存在ではない。
 全て自分が悪いとすることは、自分を守り続けることでもある。
 もう、こういう言葉を、一つ一つ、なぞることしか。
 それしか、僕にはもう、誠実を為す術は残されていなくて。
 それでも良いと言いたいわけじゃない。
 悪いなどと断じられるはずがない
 そもそも、懺悔が目的ですらないのだ。
 僕はこれすら踏み台にしようとしているのだ。
 意味が追いつくまでの時間を無視して書いているだけだ。

 やさしくしてくれた人々のことは表に出さず、空焚きの虚しさを切り崩し、これからもやっていけそうだろうか。
 嫌なことばかりじゃない。嫌な人ばかりじゃない。当たり前だ、当たり前だよ。当たり前だけど、それを受け入れても拒否しても、何一つ変わりそうになくて。
 「この期に及んでまだ、何か変わるとでも思ってたの?」だとか、そういう類の話じゃない。というか、どんな話でもない。古い、ダサい、邪魔だ。
 全てを越えたいのなら、今考えていることなど、ぜんぶ要らないのだ。
 本当は知ってるでしょ?
 お前は知っているよ。

 現在の生活。
 週の半分ほどは地下鉄に乗って、勤務先の図書館へと向かう。
 わざわざシフトは確かめない。自分の陰口を聞いてしまったからだ。仕事が遅くて迷惑をかけたこと、初歩的なミスをしてしまったこと。心当たりはある。確かにあるが、そのあとすぐに三人で仕事をするのだから、それは分かっていたのだから、どうせならうまくやってほしかったと思う。そもそも、本当に僕のことだったかなんて確信はないのだから、露骨に黙らないでほしかったと思う。
 出勤するのは朝の八時前後。日々の数だけ移ろいだ状況と『何一つ変わっていない』としておけば間違いのない心。それらを引き摺り、今年の冬を踏みしめる。今日はあの先輩がいるのかという憂鬱も、ああいないから大丈夫だという安堵も、もう疲れるだけだ。
 あの建物に入るには、エレベーターを昇るには、もっと自分を諦めなければならない。
 今の内に聞けてよかったと思う。
 黙っていてくれてよかったと思う。
 無視されるよりは幸せだと分かっている。
 大丈夫、今は整理がついてる。
 僕は落ち着いている。

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