いつかきた未知( 前編 )
僕はよく、こう質問されます。
「どうやって神様と会話ができるようになったんですか?」
それに一言で答えると、
「神様とある日、出会ってしまったからです」
となります。はい、これで質問された方はますます混乱されます。
よく考えてみますと、この件について詳しい説明をしたことは、弟以外にはほとんどない気がします。
ですから今回、この神マガでいっちょ腰を据えてご説明しようと決意した次第です。もちろん神様にもご了承いただいております。
そしてせっかくですので、神様の「呼び名」も明らかにしようと思います。(ちゃんとしたお名前はありますが、それはまだ伏せておきます)
今回、僕がよちよちながら歩んできた道程をつまびらかにし、分析&検証することで、おりられ体質で悩まれている方のご参考にもなれば幸いです。
なかなかのロングストーリーですので、これは今日と明日、2 回に分けての配信とします。僕もじっくり、ゆっくり書きましたので、みなさまもごゆるりとお楽しみください。
「声」が聴こえるようになった経緯
神様との出会いを語るには、僕がどうやって自分以外の「何かの声」を聞いているのかという問題から解き明かしていかなけばなりません。
「何かの声が聞こえること」を僕流に言い換えると、「ある種のエネルギーを感じると、そこから言葉が伝わってくること」とも言えます。
実はその能力は、僕の中で、長い長い年月をかけて、さまざまな体験を経て、少しずつ育っていったのです。それがいま、僕なりに理解している自分の成り立ちです。
けっしてある日突然、能力がバーンと降りてきたのではなく、ゆっくり時間をかけて試されたりしながら、日々練習をしながら、時には大きな痛みを伴いながら、その仕組みが徐々にわかるようになってきたといえます。
思えば、「僕アニ」を始めた当初は、神様の声を少しおろすだけで辛くなり、毎回、息も絶え絶えになっていました。その頃はまだスムーズに言語化できなかったのです。
カラダを壊したときなどはしんどすぎて、接続を僕のほうから一方的に遮断したこともありました。
でも今は、その声が僕の意志とは別に、誰かに必要な時、伝えるべき時、時間もタイミングも全く無視されて、自然な感じでふわりと降りてくるようになっています。ある意味スムーズ過ぎて、もう自動的におりられてしまう形です。
では早速、こうなっていった僕の歴史をお話しします。
僕の幼少期
1970 年。僕は福井県の小さな港町で生を受けました。
父はイカ釣り漁師。母は漁港の事務員として働いていました。母が仕事に行き、帰ってくるまでの時間は、祖母が僕をかなり自由に育ててくれました。
2 歳になった僕は自分ひとりでお散歩できるようになっていて、それはもう嬉しくて、お気に入りの青い長靴を履いて、おやつをくれる近所のおばあちゃん(いつも薄い肌着ともんぺ姿)の家に行っておしゃべりをして、それが終わったら漁港の氷屋さんで抱っこしてもらい、それが終わったら駄菓子屋でチューチュー(ジュース)をツケで飲んで帰るという、地域の皆様に温かく育てていただく半日コースをありがたく享受していたわけです。
お散歩中はいろんな人から声をかけられたり、おやつをもらったりしました。中でも印象に残っているのは、お寺の横にあった階段で、いつも同じ服を着て、ニコニコ笑いながら座っているおじいさん。僕は何度かそこでおじいさんの顔を覗き込んで挨拶したのですが、全く反応せず。おじいさんはただニコニコしていました。
その風貌が独特過ぎて、今でも鮮明に覚えています。
おじいさんは、ずっとあかんべーをしていたのです。つまり、短く舌を出して、笑っていたのですね。
僕が、
「なんで、ベロベロバーしてるの〜?」
と聞いても何も語らず、やはりずっとニコニコしているだけでした。
その顔を僕はずっと覚えていて、中学生になった時(その時は引っ越して、内陸の町にいました)昔住んでいた港の実家(祖母は当時もまだそこに住んでいた)に帰った時、祖母に見せてもらったアルバムを見て仰天しました。
あのおじいさんが、舌を出して笑っている写真があったのです。僕が見たときのまんま笑っていたその人は、僕が生まれる遠い昔に亡くなっていた、僕の曾祖父でした。
なるほど。僕が車道をよちよち歩く姿をいつも見守ってくれていたのでしょう。実は曽祖父は今でも僕の後ろにいてくれるので安心です。いまだに話したことはありませんが、きっと出している舌が邪魔で喋られないんだろうな、と思っています。
ひいじいちゃん、見守り、いつも感謝しているよ。ありがとう。
話はそれましたが、2 歳の頃の僕は、散歩中に声をかけてくれたり、周りにいる人々の半分が、実はもうこの世のものではないことがうっすらわかっていました。
そんな幼少時代を過ごして、3 歳で古い一軒家にお引っ越し。部屋の中にいるのにサラサラと雪が降ってくるという規格外の家でした。朝になり、顔に雪が積もっていた時は母が絶叫してその雪を払ってくれたことを覚えています。
そして5 歳でまたお引っ越し。当時建ったばかりの市営住宅です。ここは狭かったけど、温もりがたくさんありました。
父はこの時に漁師を辞め、陸に上がり、消防士となっていました。当時はまだ少ないお給料から、少年少女世界の名作文学全50 巻を突如買ってきてくれて、それを読み聞かせしてくれました。
その楽しさにどハマりした僕は、本の中の主人公を使い、自分で新しい物語を作り始めました。そして父が夜勤の時は僕が父の代わりとばかり、即興で作った創作物語を弟と妹と母に語りながら眠りについていました。
毎日が幸せでした。みんなでよく、母の好きな歌を歌って過ごしていた日々。そこには、美しい言葉がたくさんありました。おかげさまで、大切な言葉のバリエーションを、たくさん手に入れた時期となりました。
小学生時代
小学生になった僕。1、2 年生は担任の先生が国語専門で、音読を重視。教科書を繰り返し声に出して読むことで、標準語を叩き込まれました。
ここまでは、とても順調な滑り出しでした。
このまま良い感じで小学校生活を送れるかと思っていたのですが、3 年生になって人生が大きく転換していくことになります。
学校ですごいものを見てしまうのです。
その場所は、校舎と体育館をつなぐ南側の渡り廊下。全体集会に行かなければならないので、どうしてもクラスのみんなでそこを通る必要があります。
ある朝、いつも普通に通っていた道なのに、その日は床から湧き出ている緑色の何かがありました。なんだか不気味に蠢いています。太陽が当たって、ところどころ光ってもいます。
「これはなんだ!?」
昨日までそこには、そんなおどろおどろしいものはなかったのに。その姿をみて僕は恐怖でいっぱいになりました。よく見ると、その緑色の物体は細くてとんがった形状のものの集合体のようで、風もないのにクネクネと揺れています。
ああ、ここを通ったら僕は引き摺り込まれて戻ってこられなくなる。それはいやだ!
僕は体が硬直して動けなくなり、人の流れを遮るのは申し訳ないと思いつつも、その場に座り込んでしまいました。友達はそんな僕の背中をひっぱりあげ、立たせて歩かせようとしますが、どうしてもいやです。
進退きわまった僕は、泣きながら逃げ出しました。その先に保健の先生がいたので、僕は正直に言いました。
「あそこに緑色のグジョグジョがいっぱいいるから渡れません!」
保健の先生は驚きながらも、
「グジョグジョは怖いねえ。」
と言って、北側の渡り廊下まで遠回りして連れて行ってくれ、その時はなんとかことなきを得ました。
しかし、それからの1 年。
僕は突然ワケのわからない行動を起こした問題児「緑のグジョグジョの男の子」として、友達からは少し距離を置かれてしまいました。
見えたものを正直に人に伝えてしまうと生きづらくなってしまう経験をして、僕はその時から見えたものを人に言うことをやめました。
心の隔たり
そして4 年生になった時、なぜかは今もわからないのですが、僕は担任の先生からものすごく嫌われてしまいました。3 年生から持ち上がった担任でしたが、まず、グジョグジョ事件で相当変なヤツだと思われたのでしょう。
あとはひょっとすると、先生にとって我慢ならないほどの性格の不一致もあったのかもしれません。
僕は引っ込み思案ですごくビビリな性格だったのですが、その先生は体育が専門で、いつも明るく、前向きで強気な性格です。なにもかもが完全に真反対だった僕に対し、先生はいつもイライラしていました。そうなると僕はますます恐怖を感じ、自分の気配を消そうと努力します。
先生との心の距離は開く一方で、4 年生の春には無視に近い対応をされてしまっていました。
登校して挨拶すると、先生は一言だけ、僕にこう言います。
「お前は今日も廊下ぁーーー。」
こうして約1 年間。僕は教室で授業を受けられませんでした。
今ではありえない話ですが、昭和はこういう感じだったのですね。そして僕はそのまま3 学期になるまで、(完全に漫画みたいですが)いつもバケツを持って廊下に立ちながら、中庭に飛んでくる鳥と話す学校生活を送っていました。そして僕はもう、授業を受けることを完全に諦めていました。
しかしある日、信じられない出来事が起こりました。
一人の男子が僕にこんな言葉をかけてくれたのです。
「俺がいつか、こうちゃんを教室の中に入れてやるから。」
そう真剣に言ってくれたのは背が高くて賢くてクラスの人気者、高野くん(仮名)です。彼は、僕が毎日廊下に立たされているのを苦々しく思ってくれていました。
「こうちゃんはそれでいいの?」「このままじゃ勉強ができないようになるよ? それでいいの?」
と、何度も問題提起してくれていました。しかし、先生に逆らって生きる場所を失うことの方が僕には怖かったのです。廊下でもいいので、生きていたかった。
毎度のごとく中庭の梢に遊ぶ小鳥たちを眺めていた昼下がり、突然教室から高野くんの声が聞こえました。
「先生。こうちゃんを中に入れてあげてください。」
僕は驚きました。高野くん、なんていうことを言うんだ!
すると、担任の先生がしばらく間を置いて
「なんでや?」
と低い声で言い放ちます。威圧がすごいです。それでも怯まず、高野くんは言いました。
「こうちゃんは何も悪くないです。先生が悪いです!」
僕は焦りました。だめだ高野くん、そんなこと言ったら君も廊下だぞ!
「こうちゃんが廊下で勉強できるはずがありません!」
先生は笑いながら、
「勉強したくないから、自分で廊下に立ってるんだぞ?」
と言うと高野くんも負けず、
「勉強したくない人を勉強できるようにするのが先生なんじゃないんですか?」
と正論を投げかけます。すると先生も意地になって、
「勉強したくない奴に教えるヒマはない!」
先生の声にかぶせるように、高野くんは声を高くして言いました。
「じゃあ僕は、先生から教えてもらいたくありません。先生から勉強したくありません。」
そして最後は叫ぶように、
「だから僕も廊下に行きます!」
と言うと、本当に廊下に出てきちゃったのです。
高野くんの強さと優しさ
僕はもう、そのやりとりを聞いていて、怖くて怖くて、そしていつの間にか涙が溢れてきて、高野くんが笑顔で出てきたのを見てドキドキして小声で、
「だめだよ高野くん。先生にすぐ謝ろう。高野くんは、ちゃんとしとかなきゃダメだって。」
と言うと、
「大丈夫だよ。こうちゃんが辛いのはもう見たくないんだよ俺は。」
とまた笑顔。僕が持っていたバケツをひったくるように持って、中庭を眺めながら、高野くんはまた笑いました。でも笑ったのに、赤いほっぺたからは涙が伝っていました。
それを見た僕は気づいたのです。勇気を振り絞って、僕のために先生に意見をし、自ら廊下に出てきた恐怖に打ち勝とうと頑張ってる高野くんの、強さと優しさを。
僕は、はばからず泣きました。なんだか悔しくて、嬉しくて。でもやっぱり、悔しくて。
そうしたらなんと、さらに信じられない事が起こりました。
高野くんを慕う友達が、続々と教室から出てきたのです。最初は2 人だったのが、どんどん増えていきました。
男子のほとんどが廊下に出た時、先生は根負けして、
「もういい。わかった。全員教室に入れ。」
と静かに言いました。
その日から僕は、晴れて教室で授業を受けられるようになりました。
なのに、それからしばらくしてまた悲劇が訪れます。
大好きな高野くんが、突然学校に来なくなったのです。
皆勤賞だった彼が休むのは珍しく、病気でもしたのかな、などとクラスの皆で言い合っていました。でも僕はなんだか嫌な予感がしていて、気持ちが落ち着きませんでした。
数日後。親御さんと連絡が途絶えたとのことで心配した先生が高野くんの家を見に行くと、中はもぬけの殻でした。重そうな家具や電化製品、自転車などは残されていたようで、当時、僕が住む町ではよくあった「夜逃げ」だと、その状況を聞いて僕は理解しました。
それを知った日。
僕は教室でゲーゲーと吐いてしまいました。僕の最大の味方が突然消えてしまった。そう思っただけで、苦しくて、悲しくて、狂ったように咳が出て、所かまわず吐き散らかしてしまいました。
それを見ていた友達が、背中をさすってくれたり、一緒に泣いてくれたり。高野くんのことが大好きだった僕を、皆が慰めてくれました。
そんなのたうちまわる僕の姿をみた先生が、「またいつか会えるんだからさ」と、きっと会うことはもう不可能なんだろうなと思えるニュアンスで言ってくれたことで、やっと僕は冷静になれました。
それ以来、僕は高野くんに会えていません。でも、彼から教わった大事なことがあります。
それは、人を救う時には、大切に思う人への思いを「言葉」にしなくてはならないということです。そして、どんなに強い相手でも怯まずに伝えること。思っているだけではだめで、立ち上がって言葉に出すことが重要だということ。
「相手を思う本気の言葉は、その人を必ず救うことができる」
高野くんの行動からいただいた、僕の座右の銘です。
中学生時代
中学時代の僕は、見えない存在に何を喋りかけられてもひたすら見て見ぬふり、感じても感じぬふりで、日々恐怖感と戦っていました。だって、会話するのも怖いし、無視するしかなかったのです。
霊的なエネルギーからどれだけ怒鳴られていても、ニコニコしながら現実の友達と話す。そんなことができるくらいにスルーパワーが増大した時代です。
でも、本当は苦しくてたまりませんでした。こればっかりは誰にも相談できず、一人で解決しなければならないと決めていました。その孤独さがあまりに辛くて、迷い多き思春期の中、何度か死んでしまおうかと思ったくらいです。
授業中も先生の声が聞こえないくらい、毎日毎日、あらゆる方向からあらゆる声が交錯し、宿題をしていても、そんなことをせずに俺の相手をしろなどと叫ばれて、全く集中できませんでした。
しかし唯一といって良いほど、心の静寂を保てる時間がありました。それは、音楽を聴いている時です。ブラスバンド部に在籍できたことで、僕の心のバランスはかろうじて保たれました。
授業も集中できないどころか、そもそも勉強をする意味すらも分かりません。当然、勉強の成績は校内で最下位。ある先生には「お前は高校は受けるな。受けてもゼッタイ全部落ちる」と、気持ち良いほどハッキリ告げられました。
僕は2 年生までそんな感じのダメダメ少年。そんな状態のまま3 年生に上がり、暗い未来しか見えないまま、1 学期を迎えます。
ある日、担任の山川先生が僕を呼びつけました。
山川先生は30代なかばの女性で、専門は国語。きびきびとした性格だけどすごく優しくて、のろまの僕を見捨てずにいてくれた、大好きな先生でした。
先生は僕の顔をじーっと見つめながら、こう言いました。
「あなたのいいところはねえ。その声、笑顔、素直さ、真面目さ、心の柔らかさ・・・。」
そして窓から見える校庭に視線を移すと、ふーーーっと深い息を吐き、なにかを考え込んでいる様子。しばらく経った後、
「よし。じゃあ、まず2 組の先生に紹介だ。」
となにやら勝手に決めたみたいで、手を引っ張るように2 組の担任の先生のところへ連れていき、僕のことを「良い子なので、よろしく」と紹介してくれました。
2 組の担任はイケメンの技術の先生で、とても穏やかな性格。山川先生に言われるがまま、休み時間を使い、僕に木彫と版画を教えてくれました。
他にも、山川先生は様々な特技を持っている先生方に僕を紹介してまわってくれました。
僕としてはなんでこんなに色んな先生を紹介されるのか、その意図は全くわかりません。まあでも色んなことを教えてくれるし、楽しいからいいか、と気楽に喜んでいました。
今思うと、苦手な勉強よりも、先生方の持つ魅力的な技をどんどん吸収するチャンスを僕はもらっていたのです。
僕自身を知る
木彫
版画
けん玉
草書
障害者施設の定期ボランティア
紙芝居の心得
ざっと書き出すだけで、3 年生の時に先生方に習ったものはこれだけあります。その経験の中で、僕は今まで知らなかったことに気が付きました。
それは僕自身のことです。僕は、人と接することが好きなんだってこと。中でも、子どもと接することが大好きなんだってことが分かったのです。
ここでやっと、僕は自分の未来に立ち込めていた暗雲が晴れた気がしました。
興奮した僕は山川先生のもとに駆けつけました。
「先生、僕、やりたいことが見つかったよ! 僕は子どもたちを笑顔にしたいんだ!」
山川先生はニコッと笑って、
「よし! ならば、あなたは高校に行きなさい!」
とおっしゃいました。
そこでようやく、僕は勉強が必要だということが理解でき、授業に身が入るようになり、先生の言っている言葉の意味もわかるようになってきます。「勉強する意味」がついにわかったのです。
そんなある日、先生は、少しずつ成績が上がってきた僕を廊下で捕まえて、
「今日、あなたは交通委員長に立候補します!」
といきなり強い口調で断言しました。そして、ポカーンとする僕の不思議顔は意に介さず、
「大丈夫。あなたならできるから。」
と背中をパーンと叩いて、颯爽と去っていきました。
交通委員長?
僕はハッとしました。
前期の委員会では、僕は風紀委員でした。そして後期が、交通委員。これはクラスで一人ずつ選出される委員です。
そしてその日の放課後、全学年の各委員が大教室に集まり、全学年全クラスの委員長と副長を選別する集会があったのです。
時計を見るとその開催時刻まであと5 分しかありません。僕は大教室まで慌ててダッシュしました。
走りながら、そうか、先生は僕に交通委員のトップに立候補しろって言ったんだなとは気付きましたが、でも、そんなの僕にはムリムリ! というのが正直な気持ちです。
そして、どうなったか。
集会がはじまると僕は先生の言う通り、思わず立候補してしまい、自分でもあっけにとられるほどすんなりと交通委員長になってしまいました。
となると、根が真面目な僕は頑張ってしまいます。その半年間はとにかく無事故で生徒たちが過ごせるように、様々なチャレンジをさせてもらいました。その経験が、高校受験に繋がっていることはツユ知らず、です。
高校受験
高校受験シーズンのある日、山川先生が早歩きで僕に近づいてくると、こう断言しました。
「あなたは、必ず高校に合格する。心配いらないから。受験当日は緊張せず、堂々と、自分の名前を書いてきなさい。あなたは、○○高校に入学できますから!」
また背中をパーンと軽やかに叩き、去っていく先生。
受験当日。山川先生に熱く励まされたものの、やはり本番はもう緊張のし通しです。手に汗をかきすぎて鉛筆がツルツル滑るもので、ああ滑る滑る〜!とテスト中に言っていたら後ろから、
「こら! 縁起が悪い!!」
と試験官に叱られました。でも何が縁起が悪いのかわからず、テストも難しいものだから「わからんなあ」と唸っている間にテストが終わっていました。はい、得意だった国語以外はほとんど白紙です。
つまり、僕の答案用紙を総合評価すると、提出した時点で間違いなく「不合格決定」でした。残念。
不甲斐ない結果だったことを後日、山川先生には正直に言いました。国語以外、全部ダメでしたと。
先生はそれでも、こう言ってくれました。
「あなたは大丈夫。私が保証します。」
そしていつもの背中パーン。
秘密の一手
さて、なぜ先生がそこまで言い切れたのか?
その理由は、高校に入ってわかります。はい、ウソみたいですが、僕はなぜかあの答案用紙でも受験に合格し、入学できてしまったのです。
高校1 年の初夏。授業中にウトウトする癖がある僕は、お昼休みに職員室に呼び出されます。ドアの向こうで、担任の間宮先生(仮名。山川先生同じく30代なかばの女性で国語の教師)が早く入ってきなさいと手招きしています。
ああ叱られる。。と恐る恐る職員室に入ると、先生は隣に僕を座らせて、
「本当はダメなんだけど、私はあなたに期待してるから。あなたにだけ、これを見せるからね。こんなことは初めてだけど、これをあなたは絶対に読むべきだと思って、先生方とも相談して決めました。」
と言って一枚の紙を僕の目の前で開いて見せてくれました。それは、中学時代の恩師、山川先生が書いた、僕の「内申書」でした。
内申書は生徒には見せてはならないという約束があるそうです。その約束を破ってまでそれを僕に見せた高校の担任は、僕の授業態度があまりにも緩かったため、それを見せて何かを変えたかったのでしょう。
思惑通り、僕はその日から大変化を起こしていきます。ウトウト癖も治りました。
さて、山川先生が書いた内申書には、こんなことが書いてありました。
僕は驚きました。
山川先生がこんなに僕のことを応援してくれていたなんて。。
僕は間宮先生にこの文章をノートに書き写していいですか? と聞き、了承をもらいました。
山川先生の力強く、整った文字は欄外にまで飛び出して書いてありました。
それをノートに書き写している間、職員室なのにも関わらず、ポロポロ涙がこぼれて止まりませんでした。ヒックヒック言いながら、山川先生が僕を高校に行かせるためにやってくれたさまざまなことを思い出し、感謝の気持ちがとめどなく溢れました。
高校では、この間宮先生が3 年間同じ担任で、僕を大きな心で育ててくれました。当時、担任が3 年間変わらないのは異例のことでした。
果たしてくれた約束
卒業式の日、最後のホームルームがありました。そこで間宮先生は僕に向かい、黒板に描かれた3 年2 組の文字を指差しながらこっそりとこう言ってくれました。
「あなたがいたから、私はここの担任を選んだのよ」と。
そして僕はそこで、間宮先生が中学の山川先生からのお願いを、とうとう達成してくださったことに気付きました。成績最下位だった僕を、大学にまで押し上げてくれたのです。
間宮先生は僕に作文コンクールに出させて優勝させ、次は英語の弁論大会にも特訓のうえ出場させ賞を取らせ、あろうことか海外留学までさせてくださいました。山川先生の内申書にあった「新しい経験」をたくさんさせていただき、それを実績に、大学へ推薦してくださったのです。
校門で最後のお別れをするとき、間宮先生は僕と握手をしながら、
「約束は守りました(笑)と、いつか山川先生に伝えてね(涙)」
とクシャクシャの笑顔で僕に囁きました。僕はもう涙の大洪水で、言葉になりません。
先生に感謝を込めて長い長い握手をしたあと、僕は人目も気にせず泣きながら家路につきました。
山川先生、間宮先生、本当にありがとう。
そうつぶやきながら。
〜 後編につづく 〜
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
では明日の朝6 時にまたお愛しましょう♡
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KAMI ing out マガジン
「僕のアニキは神様とお話ができます」「サイン」の著者、アニキ(くまちゃん)が執筆。天性のおりられ体質を活用し、神様からのメッセージを届けま…
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