【みらいけんアドベント12/10】 「普通」とは何か
「今年の学びと、来年に向けて」
みらいけんアドベントカレンダー2022企画、10日目を務めます、金城 雅大(きんじょう まさひろ)です。
いただいたテーマは、シンプルに「今年の学びと、来年に向けて」。
よろしくお願いします。
自己紹介
本題に入る前に、簡単に自己紹介をします。
ガスメーカーに勤める36歳(寅年!年男でした!)の会社員です。
何度目かの転職の末、今の会社に入って5年ほど経ちました。
10歳年上の妻と、4才の娘が一人います。
みらいけん所長の後藤さんとは、2017年2月にみらいけん人狼会に参加したときに出会って意気投合。
2017年12月、単独で細々とやっていた読書会を「みらいけん読書会」として移管させてもらい、現在も共同主宰をしています。
(みらいけん読書会について|金城 雅大|note)
また、妻や娘とも家族ぐるみの付き合いをさせてもらっており、今年長野に本格移住した後藤さんにご招待いただき、家族で信州松本を訪ねたりもしました。(2023年1月にも再度訪問予定)
今年はどんな年だった?
今年を振り返ってみてしみじみ思うのは、「今年直面した出来事は、人生のどこかで必ず経験する運命だったんだろうな」ということです。
具体的に何が起きたのかというと「1月に休職し、9月に復職した」の一言に尽きてしまうのですが、その間に自分の様々な側面と向き合ってきました。
その中でも、今後の人生に最も多大な影響を及ぼすであろう出来事が、ADHD診断を受けたことでした。
実は、診断を受けた翌日にnoteで心情を綴っていました。
(私がADHD診断を受けるまでの53日間|金城 雅大|note)
この記事の最後に、こんなことを書いていたようです。
…おや、もしや今の私がこの「健康で暇な人間」なのでは?(笑)
そこで今回、当時保留にしていた「普通」について、当時と比較し変遷を辿りながら、今の考察を記します。
そしてそれを「今年の学び」としてシェアしたいと思います。
「普通」の正体
結論からいきましょう。
「普通」とは自分を理解・表現するための補助線である。(定義)
ただし、解像度がめちゃめちゃ粗い。(注釈)
「普通」の中には、口にした人の願望が含まれる。(価値)
これが、今の私の「普通」に対する捉え方です。
太字にした部分が、先述の記事を書いた当時から変化した部分になります。
一つずつ振り返ります。
1.「普通」の絶対性を和らげた「補助線」という概念
このように、診断を受けた直後の私は、それまでの人生を振り返って「『普通であること』を至上命題として生きてきた人生だった」と評しました。
しかし、その絶対的な価値が「ADHD診断」で揺らいでいたのです。
そして、同時期に読んでいた本の中に出てきた一文が天啓となりました。
著者の専門分野であり仕事道具でもある心理学の知識、それは著者にとってアイデンティティであり拠り所でもあると思います。それを「主」ではなく「補助」に押し留めて紹介する姿勢に、「あ、そんなに軽く考えちゃっていいんだ!?」という衝撃を受けました。
「普通」の絶対的呪いに縛られていた私は、この気軽さにとても救われました。私の中で「普通」と「補助線」が結びつき、「普通」の絶対性が和らいだ瞬間でした。
2.「普通」と「ADHD」の差異=線の解像度
「普通」が補助線なら「ADHD」も補助線なのでは、という発想に至るのはごく自然な流れでした。
しかし、診断直後の私はパニックに陥り思考能力が低下していたのか、よく考えずにこの二者を完全に同列のものとして扱っていました。
この混乱を解決するには、もう一つの要素が必要でした。
それが「線としての解像度」です。
図示してみると分かりやすいかと思います。
はい、皆さん高校数学Ⅰ(だっけ?)を思い出しましょう。「この放物線と直線の接点を求めよ」ですね。左のように図示するかと思います。
ですが、接点を拡大してみると(右)…なんと放物線の表面には多数の細かい凸凹があるではありませんか!あーっ!それをぶっとい線が覆い隠してしまっています!これでは真の接点がどこなのか判別がつきません!(茶番)
太い線(「普通」)はざっくりとした大きな接点を求めるには有用ですが、小さな凹凸には対応できません。もっと細い接線(「ADHD」)をひいて接点を求めてやる必要がある、ということです。
この例えを抽象化すると以下のようになります。
ある事象に対処する際、その事象に最適な尺度を用いることで達成が容易になります。取り扱う事象が多岐にわたればわたるほど、様々な尺度を豊富に取り揃えていた方が有利ですよね。
「普通」に焦点を当て再度具体化してやると、その尺度の一要素としてあるのが解像度で、解像度がめちゃくちゃ粗い尺度が「普通」です。
言い換えると、「普通」は尺度の一要素の中の一選択肢でしかない。
こうして、私は「普通」を矮小化することに成功したのでした。
ちなみに、この「具体と抽象の行き来」はこの方の本から学びました。↓
3.「普通」に潜む願望
「なぜ、私はこうも普通に縛られていたのか?」
この問いへの答えを模索することで、認知をさらに強化したいと思います。
そのヒントは先の記事の中にありました。
「普通」に擬態する、という言葉を使っていますね。
擬態の意味はご存じの通り「他のものに様子や姿を似せること」ですが、わざわざ似せようとする所には明確な意図、目的意識があるはずです。
この擬態の目的を、私は願望と捉えました。
勉強はそこそこできた → 勉強できるようになりたかった
人間関係も何とかなってきた → 人間関係をそつなくこなしたかった
結婚して、子どももいる → 幸せな家庭を築きたかった
この願望を「普通」に込めて使っていたことに気付きました。
「普通」に願望を込めたがる感覚は、私のみならず、この同調圧力の強い日本に生まれた/育った/住んだ(ことがある)人なら肌感覚でお分かりになるかと思います。
(この辺の話を分かりやすく解説している本がこちら↓ )
以上の3つの気付きから、私は「普通」であることから完全に解放されたのでした。
気付くのに約1年かかりました。
実は今年の1月末、心療内科の初診を受けた直後に、お酒の席で後藤さんと話す機会がありました。
当時の私はボロボロで思考能力も著しく低下していたのですが、自分が陥っている状況についてポツリポツリと話しました。
眠れない夜に自殺しそうになったこと、休職していること、ADHDの疑いがあること、「自分がADHDだったらどうしよう」という不安、など。
その時に後藤さんにこう言われました。
「僕がまさひろさんとこうやって読書会を一緒にやったりお酒を飲んだりしているのは、まさひろさんという人が好きだからです。発達障害だろうがADHDだろうが、そんなことは関係ない。
診断結果がどうであろうとこれからも仲良くしていきたいし、万が一にも自殺なんかされたらとても悲しいから、全力で止めたいし、僕にできることは何だってしたいです。」
…今、思い出しながら書き起こして、泣いています。
この言葉を言われた時は、私は何を言われているのか正直ほとんど理解できていませんでした。
でも今なら、「普通」から解放された今ならわかります。
真に愛に満ちた言葉だと思いました。
本当に嬉しいです。「嬉しい」と気付くのに約1年かかりました。
本当にありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
来年に向けて
さて、この記事もそろそろ締めくくりです。
軽く年末時点の近況に触れると、復職して3ヶ月経ちました。
今のところ順調に仕事できております。
また、復職後最初の1ヶ月がかなり暇だったので、資格を1つ取得しました。
メンタルヘルス・マネジメント検定試験 | 働く人たちの心の健康と活力ある職場づくりのために (mental-health.ne.jp)
3コースある中で一番簡単なものから挑戦しています。
来年は上位2つの取得も目指します。
みらいけん関連だと、
・読書会を3~4ヶ月に1度のペースで開催すること
・ここ数回の未読の紹介本を読むこと
・「War room」会への定期参加
を目標にします。
では、来年も引き続きよろしくお願いします!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?