商品貨幣論16 ―貨幣ヴェール説から生まれた貨幣プール論―
さて、商品貨幣論についてまとめようと思っていましたが、一つ忘れていたことがありました。
それは「貨幣プール論」になります。
今回はそのお話をして、次回こそ「商品貨幣論」についてまとめましょう。
ずいぶん前になりますが、貨幣ヴェール説という学説をご紹介しました。
この理論の特徴は
A地点からB地点、或いはB地点からA地点に「物質的価値が移動する」際に、貨幣はその間にあって価値を通過させるヴェールのような役目である、という理論です。
「通り抜けるヴェールなのだからヴェールそのものには価値はない」
というわけで、貨幣には本質的価値はない、本物の価値は実物の方だ、という理論が導き出せます。
A.商品(価値)⇔B.ヴェール(透過)⇔C.商品(価値)
こうして、貨幣が表す値は仮初の「名目値」、実物が表す本物を「実質値」の二つを並べ、「名目値と実質値は本来は分割して考えることができる」という経済学的な思考のことを「古典派の二分法」と言います。
貨幣には本来は価値はない、小麦などの本来の価値の代替物でしかないのだから、そんなどうでも良い物を気にするよりも、小麦のような実質的価値をどうにかして貧困層にも分け与えるのだ!そっちの方が重要だ!
と、そんな経世済民を目指して、古典派経済学はレッセフェールを推し進めたわけですが、代替物であり名目値でしかない貨幣の分配に格差が生まれることは、結果的に実質値である本来の価値の所有にも格差が生まれ、貧困層はより貧困になりました。
結局、実質的価値に影響のしないヴェールどころか、名目的価値が富裕層の懐に偏って存在している時点で、実質的価値も偏って存在してしまうというのが現実だったわけです。
ということは結局
A.商品(価値)⇔B.ヴェール(透過)⇔C.商品(価値)
という貨幣ヴェール説は
A.商品(価値)⇔B.貨幣(価値)⇔C.商品(価値)
という考えで見るのが自然となるわけです。
因みに、マルクスはこのB.貨幣(価値)がAやCという富裕層に偏在している状態(余剰価値がある状態)を何とか「破壊」して貧困層に貨幣が行き渡るようにしようとしたわけです。
この富裕層に貨幣が偏在している状態は
貨幣はAやBの富裕層のプールには満たされていてBの貧困層のプールは貨幣量が少ない、と表現できるでしょう。
A.貨幣のプール⇔B.貨幣のプール⇔C.貨幣のプール
この表現は、AのプールからCのプールへ貨幣をくみ上げて移動させる。
またAのプールを破壊して、BやDなどの多くの貧困層の各家庭が持つ水量の少ない貨幣プールへ分配するなどと表現できます。
この表現方法は
「貨幣プール論」
と言われ(見方だけに言及するのであれば、貨幣プール観、或いは貨幣プール説の方が正しいと思われますが)、経済評論家として高名な
三橋貴明 氏
が命名したものです。
現代では、貨幣は巨大な経済市場上無視できず、経済学上透過するヴェールであるという前提には立っていません。その意味でこの貨幣プール論は、貨幣ヴェール説に代わる新たな表現といっていいかもしれません。
ただ面白いことに「ヴェールは、価値ある代替物でも代用できる」ことから、貨幣ヴェール説と、貨幣プール論は、どちらで考えようと「ほぼ同じ結論」が出ます。
唯一違うのはマルクス経済学だけではないでしょうか?
マルクス経済学は古典派と違い、名目値である貨幣を重要視し「貨幣プール論」で富裕層の名目値を減らすことを考えるからです。
以上で、商品貨幣論の貨幣ヴェール説から生まれた「貨幣プール論」の説明となります。
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