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商品貨幣論8  ―重農主義に潜む資本家の萌芽―

フランソワ・ケネー、という当代随一の知識人から、生まれたこの重農主義、そしてそこからさらに生まれたレッセフェールの思想は、経済学の父アダム・スミスに伝わり、古典派経済学形成時には「セイの法則」という所謂「自然法則の一つ」として考えられるようになりました。

このレッセフェール。
現代日本において、ようやく「悪いものだ」と言われるようになりましたが、一体何が悪いものなのか、分かりますか?

もし経世済民、世を治め、民を済(救)う
貧しい人にも富が行き渡るようにすることが経済学の本来の目的
であるとするのならば、
古典派経済学の示したレッセフェールという思想は、
「貨幣」という「本来は富ではないもの」を無視し、
「本来の富」―この場合は小麦としましょう―「小麦」だけに注目し、
その「小麦」が世間に行き渡ることだけを目的とした学問と言えるかもしれません。

分かり易さを求め、敢えて乱暴に言いますと、

古典派経済学は、

小麦が世間に行き渡るには
「貨幣という富の代替物が必要」なのに
真実の富ではないからと、
媒介物の貨幣を基本無視し、

小麦の供給と流通のみに注目したわけです。

結果何が起こったのでしょうか?
貨幣という本来は富でないにしろ富の代替物が、富裕層へ偏在し、
貧困層には行き渡らない、という現実が

「古典派経済学上は無視される」

という状態が生まれてしまったわけです。

これでは貧しい人たちは小麦を買うことができません。
しかし、古典派経済学ではこの貨幣の偏在は肯定されました。
ケネーが重農主義の『経済表』の中で示しているのはこういうことです。

  1. 農民が余剰の小麦を供給する

  2. 地主(貴族・供給能力の管理者・資本家)に支払う

  3. 資本家はそれを元に加工品を買う

  4. 加工業者はその代金で小麦を買う

  5. 農民は小麦を売った代金を元に、更に余剰の小麦を生産する

農民が余剰価値として生産した農作物で最終的に、貨幣的利益を得、それに基づいて更なる農産物を余剰生産する。
「更に農産物が生産されること」
「小麦が更に供給されること」が肯定的に示されているわけです。
ここには

資本家(地主・貴族・供給能力の管理者)が不当に農民から貨幣を奪おうとする権力濫用者としての姿勢

はどこにも示されていません。

「供給能力が増加」し
「小麦が過剰に生産されれ」ば
「経済活動の結果、貧困層にも小麦が行き渡る」というイメージもあり、
「貨幣は基本、ただ消費されることに使われるのではなく」、

「供給能力をアップするために資本家が使うべきだ」

という発想になり、
「貧困層」に「貨幣という富の代替物を敢えて供給する必要は無い」。
「貧困層」には巡り巡って「小麦が行き渡る」ようにするべきなのだ、
という格差が奇しくも捻じ曲がっているとはいえ、肯定されるわけです。

皮肉というしかありません。
フランソワ・ケネーの示した重農主義政策は、ケネー本人の意思では本来は農民たちの経済的・社会的地位向上を狙ったものだったのですが、
結果、逆説的に、
農民たちの貨幣的貧困を肯定し、
小麦を生産供給する能力を高める効率的な農業を行える地主(貴族などの富裕層う)のみが貨幣的富を独占し、
富裕と貧困の「固定化」を促進してしまったのわけです。

つまり(金銭的)貧富の格差の拡大の肯定です。

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