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「開けちゃいけないんだよ」 感想と考察 ネタバレあり

大塚愛 初小説 「開けちゃいけないんだよ」の考察です。この小説は、小説現代9月号に掲載されています。

※この考察は、私個人によるものです。筆者の考えとは異なる場合が十分にございます。あらかじめご了承ください。

まだ読んでいない人は、このページを開けちゃいけないんだよ?ネタバレは構わないよ、って人も、まだ読んでいないのなら、このページを開けちゃいけないんだよ?買って読んでくださいね、おすすめです。


私は午後10時、本を開いた。鈴虫か、いや、バッタか。バッタの声が澄み渡っていた。そう、窓を開けて、暑い夜にホラー小説を読むのだ。

小説は、蝉の描写から始まる。ここで、この小説の中で蝉が夜にも鳴くのであるが、蝉が夜に鳴き始めたのはここ数年のことである。日本の蝉は昼行性であり、夜は寝ているのだ。鳴いている理由としては、熱帯夜、もしくは明るいことにより蝉が夜だということに気づいていない場合であろうか。舞台は都会とは思えないことから、前者だろう。

また普通は、雨の中では蝉は鳴かないのである。「蝉が鳴きやむと雨」という諺があるように。2日目の朝、雨の中で蝉は鳴き続けている。この不可思議な状況に、10歳のさゆりは気づく由もない…

行きしなに、メヌエットが聞こえる。ここは大塚愛を感じた。ピアノの話題。メヌエットはフランスの民族舞踊に由来するものである。その後出てくるのが、フランス人形にモナリザのレプリカ。何処となくフランスイズムが香り立つ。

さゆりは祖母の家に入ると、地下室に向かう。不穏な機械音。「開けちゃいけないんだよ」と言われた物体を開けたくなる。その時、最初のおかしな出来事が起こる。開けたくなったその心情に中の物体が呼応したように思える。物体は開けられたがっている。

戻ってきてお菓子を食べていると、祖母はいつの間にか目の前にいる。次のおかしな出来事が起こり、さゆりは家の外に飛び出すと、祖母は二階からこちらを見ている。祖母は何かを知っている。そもそも、地下室に行ったこと自体怪しまれているのかもしれない。地下室にはあの物体しかないのだから。そもそも、なぜ地下室のあんな目立つところに「開けちゃいけない」ものが置かれているのだろうか。

風呂場で事件が起こる。風呂場は一階にあるのだろうか。ものが降ってくるということは、二階でも何かが起きていることになる。この時点で、地下室も二階も恐怖の対象になっているのだ。祖母が来ると、事件は消えていた。さゆりは心の奥底で、祖母の周りにいれば奇妙な出来事から守られるのではないかという思いが芽吹き出したことだろう。

寝る前にも出来事が起こる。寝る前が一番怖い。軽い足音でぞろぞろと。布団の上を歩く。フランス人形かと疑う。目を開けると、祖母。ただ布団を手でさすっていたのかもしれない。わずかに納得できてしまうことが足枷となり、逃げ出せない。

翌日。雨が降っている。けれども蝉は鳴いているのである。この雨の間の怖い出来事は、絶望的なものである。

…………地下の物体の中身が、さゆりをひたすらに弄んでいる……?ここで、ついに一階でも事件が起こる。祖母がいないからだろうか。ついに逃げ場はないのである。(家の外遠くに逃げようとも思うが、連続失踪事件のニュースを見ているので潜在的にそうはできないのである)

外に出ると、雨が止んでいる。この事実と、蝉の声から、雨が実際に降っていたかどうかも怪しく思えてくる。家の中から見ると降っているように感じてしまうのである。その異変に気付くよう願い、蝉は鳴いている。

それは悲鳴のようで、主張のようで。

思うと、ここに来るとき、飛行機雲が×印をしていたっけ。ここに来ることの危険を伝えてくれていたのかもしれない。

祖母が帰ってきてからは何も起きなかった。さゆりはますます祖母を頼りにするようになる。

夕方、夢を見る。フランス人形ではなく、雛人形が行列になって歩いてくる夢。昨晩の出来事とリンクしてしまう。そして、目が覚めた時に落ちていた小刀。こんなものめちゃくちゃ怖いのに、拾ってポケットに入れてしまう。さゆりもほとんど無意識でやったのではないだろうか。小刀がさゆりの手元にある間、さゆりは寄生されるような、操られるような挙動を時々見せることになる。

母との電話。この異空間のような非日常のような現状に現れる日常の象徴。ここで少し恐怖が軽減されると思いきや、衝撃の事実を知り恐怖が増してしまう。ここの演出は素敵。

お風呂場では気を紛らわすために「ひょっこりひょうたん島」を歌う。あまり関係がないが私は最近「モーニング娘。のひょっこりひょうたん島」のMVを見た。でも、ここでは多分それじゃないですね。原作の方。そう。NHKで昔やっていたらしい(知らなかった)……………………人形劇の方。


人形劇の方。


人形で怖い目にあっているのに、この歌を歌うのです。無意識でしょう。夕方、小刀を拾ってから、人形に……干渉されているような気がする。

最終夜。

開けて」

地下室の物体は、開けてほしがっているのである。ドアが開く。まるで招いているかのよう。

ここでさゆりは小刀を握りしめる。行かないほうが怖い目に合わないだろうが、部屋を出てしまう。

地下に物音がする。行くべきじゃない。今ならそう思うだろう。だが小刀を握っているさゆりは、もうそんなこと考えられていなかった。

いつも鳴っている機械音が聞こえない。これぞ日本のホラーである。海外物では逆のパターンになるだろう。夜の静寂の怖さ。いつもと違う静寂の怖さ。これが大塚愛の求める日本のホラーである。

地下室にて、シートの隙間から小刀を回収される。目の前で明らかに起きる怖いこと。

なのに、さゆりはシートを開けてしまう。もう小刀はない。操られているのではなく自らの意思で、「開けちゃいけないんだよ」この忠告を、破る。

シートを開ける。

………シンプルに考えると、雛人形がさゆりへの恨みを晴らす場面となるのだろうか。ありえないことだらけのこの部屋の床は濡れている。雨がしっかりと降った形跡が残っているのだ。もうここは、現実かどうかもわからない。

おばあちゃんが来る。頼りにしていたおばあちゃんから放たれた言葉が、すごい。ここが最大のトリハダポイント。

望みは残らなかった。

蝉は鳴き続ける。

近所の男の子たちが家のドアを開けようとしたとき、祖母はまたあの言葉を言う。悲劇を繰り返さないように。

大塚愛は小説現代のインタビューにてこう話す。

「人間が一番怖いな、人間ほど恐ろしいものはないな」

「開けちゃいけない」ものを開けてしまう。開けたくなってしまう。「開けて」と聞こえたのも、数々の不思議な出来事も、もしかしたら現実に起きたものではないのかもしれない。現実と非現実が混ざった世界にいつの間にかさゆりはいて、さゆりはその奥で「開けたい」と心が疼く。人間の好奇心である。

「開けたい」

その心に応えるように、妄想を膨らますように、様々な出来事が現実と非現実の混ざった世界で起きる。その妄想こそが、その好奇心こそが、人間の怖さ。

大塚愛は同インタビューで、細かい描写全てを特別に意識して書いたわけではないと語る。想像することで、何の奇跡か、描写同士がリンクすることがある。頭に浮かんだ絵を描き起こしたら、この現象が自然と起きる。もはやホラー。執筆活動とは、妄想であり好奇心。読書活動とは、妄想であり好奇心。やはり人間はホラーなのです。

人は「わからない」ことを恐怖と考える。もやもやが残るいくつかの謎。これは明かさないほうがいいのかもしれない。気づかぬ間に、そのもやもやが私たちをホラーの世界に招き入れている。「明けちゃいけない」んだ。

この文章を執筆中ずっと蝉は鳴いている。気のせいか、つけていないはずの扇風機が一瞬回転したように見えた。


※このnoteは、まだ加筆・修正する可能性があります。不思議な出来事に関しては全て扱えていませんし、わかっていないことも多いです。何か考察があれば、ご自由にメッセージをいただけると嬉しいです。(何が正しいかなど誰にもわかりません。間違いなど恐れず、メッセージをいただければと思います!)

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