宿とはなんぞや
私は宿屋である。宿代をいただき、それによって生計を立てている。宿屋とは泊まる場所である。ただ、「泊まる」というのは単に「寝る」ではないとも思っている。
宿=泊まるところ≠寝るところ
宿は泊まるところであるが、ここでいう「泊まる」は「寝る」つまり布団の中で横になり、目を瞑る…という行為を意味するわけではない。
宿に泊まる=宿を起点に過ごす
宿に泊まるというのは、そこで誰かと出会い、話し、そこで知った場所で食事を取ったり、銭湯に行ったり、流れでいつも飲まない缶ビールを開けてみたり、そういう、実際に横になって目を瞑っているわけではない時間も含めて、「泊まる」という行為なんだと思う。
まちづくり、空き家活用への違和感
自分が宿を始めた15年前は今ほど「まちづくり」「空き家活用」という言葉は聞かなかった。それがこの数年のなかで、開業を夢見ている人と話すと「まちづくりの一環でゲストハウスを」「空き家の活用としてゲストハウスを」という方も多い。「ぼくのつくる宿は宿泊に力を入れると言うよりも、町を元気にしたいから宿をやるんです」のように言う人もいた。
大学生の論文聞き取り調査への違和感
大学生の論文の聞き取り調査の依頼をたくさん受けるが、「どうして空き家を活用しようと思われたのですか?」「まちづくりがやりたかったんですか」というように聞かれることが多い。失礼は承知で言うと、そう聞かれる度に心のなかでめんどくさいなぁと思う自分がいる。
違和感の原因は旅人の存在がないから
そういった違和感の原因は、その人たちの目に、大切な旅人の姿がないように思うからなのかもしれない。私は前述した一連の「泊まる」という行為に面白さや可能性を感じているから宿をやっている。そして旅人のために作った居場所が私自身の居場所になっている。
「泊まる」という一連の行為のなかで
繰り返しになるが、私は宿屋で、宿代を得て生計を立てている。もちろん自分自身が住み営む町が面白いに越したことはないし、まちづくりを否定するわけはない。ただ旅人からするとそんなことよりも、安心して、心地よく泊まれる場所であることが前提。なので、「まちづくりのために宿を開業する」というのに違和感がつきまとう。自分はもっと旅人の方を向いていたい。誰が何のために私にお金を払ってくれているのか、それを忘れてはいけないと思う(もちろん、そういった地道な行為を繰り返していった先には、まちづくりというのも存在しているとは思う)。