すべて杞憂で、という甘い期待
どうか杞憂で終われ、と願っていることがある。2か月先に職場異動でこちらに来る彼女の気性の荒さについて考えている。その事実を知らされた日は
まさにそのことばかり考えていた。
しかし考えたところで私は彼女のことをあまりよく知らない。知っていることと言えば私の同期で、おそらく同期の中で一番優秀であること、そして恐ろしいくらい負けず嫌いであること。そして思ったことは誰であろうが、はっきりと物を申すこと。
「ちょっと個性が強いけど、大丈夫かな」という上司の伺いがあった。
大丈夫ではない、という回答はどうせできないので、大丈夫です、と答えておいた。他の同期の話を聞くと「心配」の文字しか浮かばない。
しかし、「希望」があるとすれば、それは人から聞いた話に過ぎない、ということであり、「なんだぁ、思ったこというとか仕事のことだったらあたりまえじゃんね。意外と大丈夫だった。」と言えていればいいのだけれども。
働くうえで人間関係で悩んでいる暇などないが、働くうえ人間関係が重要であるような気もする。人間関係で円滑にまわることもある。し、私の事は最悪どうでもいいが、心底心優しい人達が傷つくのはつらい。
いや、私だってどうでもよくない。
そういえば先月から、自動車学校に通うことになった。通帳に記載してある金額が30万ほど減るのも奇しくも2か月後である。次のステップに進むために、私は車の免許をとってみようと心に決めた。
一番怖いのは、突然私の人生にあらわれた他者によって心を乱されることである。休みの日に自動車学校に通えなくなるくらい、他者の言葉に精神を摩耗してしまうことである。
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社会人2年目あたりで、「社会人失格」「成人失格」という言葉をなげられたことがある。今であればホウレンソウが壊滅的にできないやつだったので「まぁたしかに言われてもしゃあないわな」と容易に振り返ることができる。しかし当時はその言葉自体にやられ、休日すら心を休めることができなかった。転職も頭をよぎったが、「社会人失格」の私はやめて何ができるのかわからず、一旦やめてしまえばニートしか道は残されていないような気がしてやめることもできなかったのである。
しかし、数年たった今、思い返してみてどうだろうか?
たった一つの基準、たった一人の評価にとらわれて、自分は何もできない人だと決めつけて、何もできなかったあの時間に何の意味があったのだろうか?他者の評価に影響されて、自分の未来を削ってしまうのはなんとしても避けたい。
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つまり、異動してくる人がどんなに横暴でも、自信をなくしたりせずやりたいことをやろうぜ、免許をとろうぜ、という話なのだが、仕事には厳しいけど実は芯があるめっちゃいいやつ、とかであってほしいな、という甘い期待もある。私はまだ経験がないんだけど、ほら多分、同期と働くってうまくいけば楽しいことだよね。