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わたしを忘れてもいいよ #私が見たゆめのせかい



深い深い青。まるで海のなかにいるみたい。

透明で、澄んでいて、でもどこか強い光を放っている。

画家ゆめのさんの作品を何度か目にして、わたしが抱いていた彼女のイメージだ。


今回、ゆめのさんの作品をモチーフとしたコンテスト「私が見たゆめのせかい」へ参加するため、あらためて作品をひとつずつ拝見した。どれも宝石のようにキラキラと輝いている。きれいだな。

眺めているうちに、ひとつの作品から目が離せなくなった。

それは「わたしを忘れてもいいよ」。

タイトルだけ見れば、なんとなく寂しくて、永遠の別れを現しているのかなあ、と思う。

けれど、キャンバス一面に広がるのは、鮮やかなピンクだ。叩いたような筆跡と、あぶくのような白、そして奥に見え隠れするオレンジ。優しいけれど、どこか燃えているようにも見える。

別れを連想させる言葉なのに、なぜか熱のようなものを感じた。

きっと、深い、深い意味があるのだろうなあ。じっと作品を見つめているうちに、わたしはその意味を知りたくなった。


わたしを忘れてもいいよ

どんなときに口にするのか考えてみる。
たとえば、ひとつの恋愛が終わって、相手の幸せを願うとき
どうか、あたらしい人を見つけてほしいと願うとき

こう捉えるのが普通かもしれない。そういえば、最近観た海外ドラマでも、主人公がもう二度と会うことのない愛する人に「わたしを思い出さないで」と言ってたっけ。

でも。

なんだかいかにもという感じで、どこかもの足りない気もする。

それに忘れてもいいだなんて、わたしなら言わない。寂しすぎるもの。恋愛経験も数えるほどしかないし、きっと「忘れないで」と言ってしまいそうだ。

絵を思い浮かべて何度も何度も考える。けれど、いつになっても答えは出ない。

わからない。なのに、どうしてこの作品に心が揺さぶられるのだろう。ただ、時間だけが過ぎていた。


先日、noteを彷徨っていたとき、あるひとつの詩を見つけた。


思い出さないでほしいのです
思い出されるためには
忘れられなければならないのが
いやなのです
『思いださないで』寺山修司 


何度も読み返して、その意味を考える。

「思い出す」ということは「忘れられる」から起こるものであって、つまりわたしには気持ちがもうないということ。

「忘れていた」から「思い出す」のだ。 

好きだから、愛しているから、あなたに忘れられたくない。
今まで忘れられていたという事実が耐えられない。だから、わたしを思い出さないで。
忘れたのなら、いっそ忘れたままでいて。

複雑な心理だけど、それほどまで、相手を想っているんだなあ。

何かが、つながりそうな気がした。わたしは眠りに落ちるそのときまで、思いを巡らしていた。


記憶や思い出と忘却は、常に行ったり来たりするものだ。

ひとは常に誰かと出会ったり、なにかを経験しながら生きている。そして、現在が過ぎたその瞬間から過去になる。今起こっていた出来事が、過去のものとなり、記憶とか思い出に変わってゆく。

そして、過ぎ去った記憶を忘れては思い出し、また忘れる。その繰り返しだ。

小さい頃に友だちと日が暮れるまで遊んで楽しかったことも、仕事で認められて嬉しかった出来事も、挫折して悔しかったことも全部、ある時に思い出し、また忘れる。

恋も、愛もそう。終わった瞬間に、思い出や記憶に変わってゆく。

「思い出す」ということは「忘れる」ということ。そして「忘れる」ということは、また「思い出す」こと。どのくらいの周期かわからないけれど、ぐるぐるとまわるのだ。


わたしを忘れてもいいよ

忘れてもいい、か。

じゃあ忘れたらどうなるの?

ゆめのさんの作品を眺めながら、見えない糸をたぐり寄せる。

ひとは物事を思い出しては忘れ、忘れては思い出す。

ということは、わたしを「忘れる」ということは、わたしを「思い出す」ことにつながる…

はっとした。

「忘れる」と「思い出す」の繰り返しをつらいと捉えるか、前向きに捉えるかは違うけれど、根っこにあるのは、あの詩とおんなじだ。

見つけた気がした。


わたしを忘れてもいいよ

それは

忘れてもいいよ だから、いつかまたわたしを思い出して


ことばの奥深い、深いところにあるのは、とても強い愛。

いつまでも消えることのない、相手を想う気持ちがそこにある。


そうか。だから、今もなおパチパチとはじけながら燃えているんだ。






#私が見たゆめのせかい

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