OrganWorks「HOMO」忘備録#2
リハーサル時間
毎日が過ぎます。
無音で限りなくさりげなく。
たまに音付きで去っていってくれれば気付くのにとかね、
感覚を伴ってくれればとか思うもんです。
締め切りとかあるときは特に。
稽古日がいつの間にか毎日しっかりと無くなっていく、酷です。
当たり前ですが、時間は無音で無臭で無形。でも流れる。
詩的な存在で大きい。
大きすぎて意識できない。
小さいものは気になるくせに。
死なない人間には時間の概念が違うでしょうね。
焦るとか、待つ苛立ちとかという感情は死滅していきそうですね。
コンポジション
舞台の上で流れる時間もコンポジションと呼んでいます。
「も」ってのは「コンポジション」とは一般的に舞台の上の人や物の配置の事の総称。
けど、僕は時間軸におけるシーンの配置の事もコンポジションと呼んでいます。自分が知らないだけでこれ一般的だったりして。
流れるというか積まれる作品時間に穴を開けたり、物事を積み上げたり速度をあげたりを考えながらやるんです。
その他にも無形無音無味無臭の時間を表現することに基づいたアイディアがいくつかあります。
スローと呼ばないで
ところでゆっくり動く表現、俗に言うスロー。
僕の作品にはたまに出てきます。
最近これをあまりスローと呼んで欲しくないんす、実は。
例えば舞台の上にはいくつもの次元を作りだせて、それを同時に表現することができます。
昔はそのいくつもの次元が同じ時間軸で動かすから見辛かったみたいで、
よく「目がいくつあっても足りない」とか言われてました。
「ハァ、キヲツケマス」なんて言ってましたが、確かに。でも、街の中にはいくつもの関係性や環境がいくつも同時に存在してるわけで。。。
しかし、幾つもの踊りが同時多発的に起こるのを一度に捉えようとすると見辛い。
で、今はというとグループを次元別にしてそれぞれの時間を引き伸ばしたり、
早めたりして身体の速度を調整して、隣接する次元を干渉しないようにするやり方を見つけたりといろいろと方法が生まれました。
その時間の引き延ばしを体でやってもらう時にいわゆるスローになります。
スローは時間を引き延ばす訳です。
ということはデティール(詳細)が求められる様になる。
つまり、ゆっくり動く理由が軌道の引き延ばしなのだとすれば目が追いついてなかったデティールをキャッチできるという理屈にいくんです。
僕の中では。
で、時間を引き延ばし(サスペンション)できるようになってくると、
今度は身体のデティールを創作しなくてはいけないというのがついてきます。
つまりコマ割りを更に細かくする訳だから目で追えないであろう、動きの詳細を作る訳です。
動きを顕微鏡で見て時間を引き延ばす。
オーガニックな動きではあるものの、それを実践する時に速度がありすぎると身体の経路が可視できなかったり、構造の各部の関係性が読み取れない。もしくは無意識に通過している通過点がある。
これを整理するとダンサーの動きを整理する能力が上がる。
僕もダンサーも。
これもまた時間をかけて動きを見つめる副産物です。
因みに時間を早めることもできます。
アクセントって呼ばないでね。
批評的観点
これをやってると舞踏のようだとか、NOISMも早い動きしてたとか、
兎角、既成形式のものと比較されるんですよ。これがまた煩い。
し、ナンセンス。
ってかその元にされてる方々にも失礼だよって思うの、
作り手が生存している場合は本人同士が見れば全然違うってなるし、
その違いを理解しておいてってなりますよね。
批評的観点は重要ですが、何と比べるかですよ。
それこそ2001年とか時計仕掛けとかインターステラーとか。
手法の話しならそのあたりの話が出てくると上がるんですが。
ま、余談。
つまり時間も何と比べるかが重要です。
誰かの時間があって別の時間がある。
HOMOで言うと。新人類の時間、旧人類の時間、これからの時間の長さはまるで違う。
屋久杉の1分と亀の1分とカゲロウの1分も違う。
1分あたりの濃度が。と言う戯言のような視点で時間を捉えたいです。
時間野
舞台に時間が流れる。
それはお客さんとダンサーの間にも。
もちろん共演者同士でも。
時は音楽を携えてやってきたり、照明と共に変化したりと形を伴う時も。
それを見たときに聞いたときに時計の針が頭の中にすっとよぎると視野が広がる感じになるかもね。
時間とは物体ごと、部分ごとに流れるものでもありますが、空間を包む様に流れるものでもある。
視野がそこにいけばという思いです。
ってことでリハーサルの時間がないんです。
「ないないなーい!」という叫びからの時間についての考察でした。
OrganWorks・平原慎太郎
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