みちゃった

みちゃった、というか、見れたからみた、というほうが正しいのかもしれない。

物静かだが、内に大きなパワーを秘めている友人の、内心を少し覗く機会があった。

友人にとってはきっと不本意で、ましてや私を傷つけるつもりなど毛頭ないのは分かっている。が、友人が語った割と正解で少し的外れな持論が私という人間のしょうもない部分に引っかかって抜けない。

こんな時浮かぶのは、ああ、私はこう思われていたくないな。という相手にすり寄るような思考だ。

「私は私でいられたらいい。」

そういうセリフが似合うと、周りからはよく言われるし、実際そういう事を言うこともある。ただ、そういう自分が好きなだけで、実際問題本当に「そう」なのかはわからない。


実は今年の3月から犬を飼っている。前にいた芝犬によく似た顔をしているが、母の溺愛っぷりが昔とは遥かに違う。今も私の足元で魚の開きの様に地べたに這いつくばったままスヤスヤ眠っている。愛くるしい、と思う反面、私は昔いた芝犬の事を思い出す。

彼はとても利口で、我慢強く、臭い犬だった。二度ほど脱走した事もあるが、運が強いのか悪いのか、必ず我が家に戻ってきた。当時は賃貸だった事もあり、室内では飼えなかったので彼はいつも臭った。外飼いの犬独特の獣臭だ。わたしはそれが苦手だった。ボールを投げても取ってこないし、おもちゃにも反応しない。そんな可愛げのないところが幼心ながらに面倒だと思っていた記憶がある。だが厳格な父の元で育て上げられた彼は、どんな残飯でも残さず平らげたし、名前を呼べば耳をピンっと立てて飼い主の元へ戻ってきた。おすわりと伏せに関しては、今まで出会ったどんな犬より完璧にできた。

彼は天命を全うしこの世をさったが、我が家には勿体ないほどいい犬だった。何度引越しを強いられても、訳あって飼えなくなり親戚の家に預けられることになっても、散歩当番だった私たちきょうだいに何度散歩をサボられても、無駄吠えはしなかったし、不審者がいればそれを知らせ、だれかが家に帰ってくれば全力で喜びを表していた。(もちろん外で鎖に繋がれたままだが)

今目の前にいる、彼によく似た芝犬は、彼の苦労など微塵も感じないままに死んでいくだろう。家を離れていくきょうだいに変わってここに来たのだ。時間を持て余した母によって沢山の愛情を注がれるに違いない。外に繋がれたまま、家族が学校や仕事でほとんど世話をみない日が続いた彼の人生を思うと、胸がキュッと締め付けられる。

きっと、こんな事を考えているのは家族の中でわたし一人なんだろうな。母の幸せそうな顔を見ると、それを強く実感して、また胸がキュッとなった。


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