東京に山買うまで
なぜ山を買おうと思ったのか?と聞かれるとなかなか答えるのが難しい。
安かったし「なんとなく」自分の場所が欲しくて山を買った。
このまま理由がはっきり説明できない状態もすっきりしないのでもうすこし掘り下げて説明できるよう、山を購入するまでの経緯を整理する。
山原点
まず第一に、「決して」昨今のブームに乗って山を買おうと思ったわけではないと言い訳をさせてもらいたい、ミーハーが嫌いなので。ただ、流行り物にはほとんど手を出しており、試してから意見を持とうとはしている。私は自称実践主義なのだ。
私が、山を所有して自然の中で過ごすことに憧れたのは、そもそも幼少期の原体験があるからだとそれらしいことを言ってみたいと思う。以下はプチ捏造の自分史だ。
小学生の頃、夏休みになると家族と共に大阪の祖父の家にいくのが決まりだった。祖父の家は、大阪の石切という場所にあって、坂道険しい生駒山の中腹にあるマンションの一室だった。ジリジリとした日差し降り注ぐ真夏日、ツクツクボウシやアブラゼミが四方八方でジージーと鳴いていたのを思い出す。息を荒くしながらきつい坂道を下を向きながら歩いていると、路面の真空コンクリートのリングがスピーカーになって鳴り響いているようだった。駅からの灼熱地獄を超えたどり着いたオアシス、そこが祖父の家だった。
祖父の家は、冷房がいつもほどよく効いていて、カーペット敷の広いリビングから見える大きな窓を埋め尽くす緑の風景が、印象に残っている。何日か祖父の家に世話になっている間に、生駒山を少し登った。小さな川があり、そこでサワガニを掴んで遊んだりなどした。山には当時の私の顔ほどもあるオニヤンマがいたし、蛇も出た。また、祖父からは山には仙人と呼ばれる人がいると聞かされていた。実際これは空想上の人物とかではなく、リアルに存在していたようだ。子供ながら、少し憧れた。
山はとてもよい。夏の山はひんやりと涼しく、生き物がたくさんいて、空気が澄んでいる。ふかふかした土の匂いもする。
本当の自由を求めて
なんてそれらしいことを書いてみたものの結局山を買う理由、それは自由のため、所有欲と独占欲を満たすためだ。なんでも自分の自由にして良い場所がほしい。公園や道路は火も使えないし、ドローンも飛ばせない。公共の場というのはなにか人と違うことをしようものなら周囲から怪しい目で見られ、最悪通報・逮捕される。
歴史上人間は自由を勝ち取るために様々な困難を乗り越えてきたはずだが、本当に自由にして良い場所というのは実はこの世にほとんどないのだ。皆社会が決めた狭い自由の定義の中で生きている。それが普通だし、決められたルールの中で生きていくのは案外窮屈でないのだろう。
だけど、いよいよこの時代も生きづらくなってきた。みんなが発信する時代、相互に監視しあいただでさえ窮屈な自由がより窮屈になった気がする。そういう世の中の監視の目から逃れる方法はただ一つ、社会から離れることだ。私にとって社会から離れ、本当の自由を手にする手段というのが山だったわけである。
心の余裕としての山(22.08.26追記)
これは山を購入してから発見したことだが、山を所有することのメリットを一つ伝えておく。
普通に仕事をして、普通に生きているだけで人はたくさんのストレスを抱えてしまう。他人からみればどうとでもないことでさえ、いざ自分ごととなれば死にたくなったりもする。そんなとき山を所有しているとどうだろう。例えば誰かに責められているとき、すみませんすみませんと口では言いながら、「俺は山を持っているんだぞ?そんな些末なことでいちいち文句をいうな」などと心の余裕が生まれる。(反省しないということではない)
一時期ミニマリストというのが流行ったが、最初から何も持っていない人間があれこれを削ぎ落としたとして、貧しくなるだけだ。私は、LESS IS LESS・MORE IS MORE、持っている人ほど心が豊かだと考える。手っ取り早く心の余裕を手に入れたいのなら、山はおすすめだ。例えば車を所有するのは心に余裕もできるし、よいことだが満たされた感覚は想像を超えない。これが広すぎる土地を所有したとき、畏れにも似た感覚がじわじわと胸のうちに湧いてくる。同時に心の余裕もじわじわと広がっていくのだ。