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私の野球遍歴、知りたくないですか????(圧)
最近物にあたったり、地面のものを蹴ってしまったりすることが増えてしまいました。
あ、八つ当たりではなく、ただ自分の身体間隔認識能力が落ちているだけです。
ダサいです。
どうも、こんばんは。
堅揚げポテトです。
今日は、これから野球について語るにあたっての根拠作りのためにも、僭越ながら、自分の野球遍歴について話させていただきます。
早速いきましょう。
私が野球を始めたのは小学校3年生の11月でした。
実は同時期に将棋の学校代表に選ばれていて、少しだけ入部が遅れたというエピソードがありまして。
なので始めた時期ははっきりと覚えています。
私は、小学生の頃は成長の早さ故に体が大きく(小6の時点で160cm超え)、とても期待されていたのですが、いかんせん足が遅かったり、守備が下手だったりで、ポジションはあまりボールの飛んでこない「ライト」に固定されていました。
また、自分が所属していたチームはその地区の中でも少しだけ強い方で、その理由としては、小学校4年生から6年生の試合に出ているスーパースターが4人程いて、そいつらを中心にチームがある程度出来上がっていたんです。
それ以外のメンバーもそれなりに揃っていたので、自分のチームの中での立ち位置を見つけるのに少し苦労しました。
自信があったバッティングでも下位の「6番」を任されることが多く、自分ってこのチームに必要なのかな?と思うこともありました。笑
体だけ大きい「6番ライト」なんてめちゃくちゃなめられるタイプですよね。笑
なので私、結構頑張りました。
守備は下手なりにカバーリングをしっかりしたり、ボールを捕れなくても身体の前で止めたりというのを徹底しました。少年野球にしては肩はある方だったので、そこから投げてライトゴロにとれるということもありました。
守備が安定してくると自信のあるバッティングも勝負強さが増し、チームに貢献できるようになりました。
ここで、チームの勝ちに貢献する喜びを知りました。素晴らしいです。
まぁ自分なりにできることを探して伸ばしていったんですね。
そんな少年野球では痺れる試合もたくさん経験して、小さい大会ではありましたが優勝することもできました。だいぶ楽しい、実りある少年野球生活だった気がします。
その後中学に上がった私は中学校の軟式野球部に入りました。
その中学でもなかなかレベルの高い環境で野球をすることができました。
なにせ、地元の地区で常勝を極めていた別の小学校の少年野球チームから上がってくる人たちが大半を占めていまして。
最初はレギュラーになれないんじゃないかって怖かったですね。笑
でも、自分達も強かったので、「合わさったら最強なんじゃないか」って考えてました。
そっちの楽しみの方が大きかった気がします。
一個年上の世代もとても強かったです。夏は県制覇してました。すごかったです。
なんかここだけ小学生の日記みたいになりましたごめんなさい。笑
そんな環境の中でしたが、体の大きさ故に自分を過信した私は「ピッチャー」を始めました。
自分でもなんで始めたかはわかりません。
それでも結局3年間ピッチャーでやり通しました。
ランメニューめちゃくちゃきつかったなぁ。
そんな中学で1番印象的なのは夏のシード権をかけた春先の大会です。
自分達のチームは投手陣4人が横並びで、誰がエースと決まった感じは全くなく、1試合をその時調子がいい2人で担当するという不思議な形をとっていました。
ただその春先の大会期間中に、1番安定感のあるピッチャーがインフルエンザにかかってしまい、3人で、しかも二日間で4試合という鬼の試合日程を回さなければならないという絶望的な状況になりました。
そこで、私を含めた残りの3人が奮起しまして。
なんと4試合で失点はわずか3。
そのままその大会は優勝を飾りました。
きついランメニューを共にしたピッチャー陣の絆と安定感は強かったです。
飲みの席でこの話をすると止まらないです。笑
その優勝の勢いのまま夏の大会もーーーといきたかったんですけれども、地区予選突破後の県大会一回戦で敗退してしまいました。
とても悔しかったですね。
初めて泣きました。
1番悔しかったのは、その試合中はずっとブルペンにいたので、勝敗に関わることすらできなかったことです。
やはり野球はレギュラーになってこそだということを知りました。
だいぶ長くなっていますが、高校も行きたいと思います。
高校は野球で進んだわけではなく、勉強・部活・行事等の学校生活のバランスがとてもよい地元の人気校に進みました。
学校自体の雰囲気がいいので、野球もそこまで弱くはなく、県でベスト8に入ったこともある程々のところでした。
そして私は、この高校野球で最大の挫折を味わうことになります。
一年生の間はひたすら下積みでした。人数が多いせいで、練習に参加できるメンバーが限られていました。何回かピッチャーとして一個年上のメンバーに混じって練習させてもらうこともありましたが、結局本大会前には振るい落とされて、という感じでした。
そこから2年生に上がったタイミングで、自分の意思でピッチャーを辞め、外野に転向しました。
理由としては、伸び悩みを感じたことと、「キャラ被り」です。
冬のトレーニングを越えてメンバーに入れそうになかったこと、自分と同じタイプのピッチャーが他にも4人いたことで、ピッチャーではなく、外野手としてレギュラーを目指そうと決めました。
もともと中学でピッチャーをしていた間も、試合に出るときは5番を任されるくらいにバッティングは得意だったので、特に未練もなくピッチャーを辞めました。
そして先輩が夏に引退し、自分達の代の秋大会を目指してレギュラー争いをしている頃、違和感を感じました。
自分が試合に出る機会、チャンスが少ない。
もちろん、試合だけではなく練習中にも実力は見られているわけですが、それにしても機会が少なすぎました。
同地区10チームの高校と総当たりを行うリーグ戦、実質秋大会前のメンバー選考のリーグでも、9試合を通して出場機会は代打の3打席のみ。
圧倒的に場数が足りず、成長もないまま、そのリーグ戦が終わりました。
結果、私は秋大会の登録メンバー20名から外れました。
悔しさ、絶望と同時に、とてつもない怒りを覚えました。
なんであんなにチャンスが少ないのか。
なんであいつが試合に出るチャンスをもらって、自分がもらえなかったのか。
本当に分かりませんでした。
正直これに関してはまだ納得がいっていません。
わかる人がいたら教えてください(?)
チームはその秋大会で県ベスト8に進み、21世紀枠の県推薦を勝ち取る大躍進を遂げました。
高校としても県ベスト8が過去最高成績に並ぶものであったため、とても盛り上がっていました。
もちろん僕は全く嬉しくありませんでした。
ずっとスタンドでメガホンを持って声を出していただけだったので。
高校の友達が応援に来てくれても、ただただ恥ずかしいだけでした。
そんな屈辱を糧に、僕は冬トレに望みました。
しかし、ガムシャラに頑張ったというわけではありません。冬トレ中は無理をして怪我をするなど、本来のパフォーマンスを発揮できない状態のまま、きつい練習を続けて壊れがちです。
自分は試合に出る実力がある。
という謎の自信を持っていた私は、それを発揮するためのメンタリティと、自分の課題を克服する「正しい努力」を心がけました。
バッティングではとにかく勝負強さ、集中力、積極性を磨きました。
練習中も常に一球で仕留めることを意識しました。チームで行うトレーニングで自ずとパワーはつくので、それを発揮するためのメンタルを鍛えようと考えたということです。
そして、なによりも、とてつもなく苦手な守備と走塁に関しては、ただやるのではなく、自分の中に「理論」を叩き込みました。
技術は練習をこなす中で培われるので、その技術が早く浸透するように、とにかく考えて練習をしていました。
まぁ出来る出来ないは後にして、下手は下手なりに考えてやっているということです。笑
そうやって考えている中で、もともと試合中や練習中にチーム全体を観察するのが好きで、それと学んだ理論の結びつきが多く、野球に面白さを感じるようになっていました。
それが今の野球観戦好きに繋がっていると思います。
そうして、春大会のメンバー選考のための紅白戦で結果を残し、見事にベンチ外から1桁の背番号を勝ち取ることができました。
夏は守備の下手さゆえにポジションを移されましたが、1桁背番号は変わらず。
ただ、勝ちはしたものの一回戦にそのポジションでエラーをした苦い思い出があります。笑
でもタイムリーヒットを打ったのでプラマイゼロってことにしてください…笑
メンバーに入ってからの思い出はとてもキラキラしています。やはり、試合の勝敗に貢献できるというのが1番楽しいんだと、改めて思います。
以上が僕の野球遍歴です。
まだまだ書けていない苦しかったこと、楽しかったことがたくさんありますが、それもその都度書いていけたらと思います。
このように、僕は野球をする中で程よい挫折と程よい成功を経験することができました。
しっかり野球を経験してきた上で思う、野球というスポーツの面白さを、次回は語っていきたいと思います。
とっても長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださりありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。