曖昧の美しさ
冬に備えて順調に肥えてきています。
冬眠もしないし、そもそも今日も20℃超えなんですけどね。ははは。
お久しぶりです。堅揚げポテトです。
突然ですが、
「曖昧」についてどう思いますか??
わかりにくい、めんどくさい、はっきりしてほしい
みたいな感じですかね。
あんまりポジティブなイメージはないと思います。
意味としては、パッと調べたものでいうと、
内容がしっかり捉えにくく、はっきりしないこと。二通り(以上)に解せられること。
らしいです。
「曖昧」について考えるようになったのは、数年前からです。
別に素養を身につけようというわけではなく、映画や小説など、とにかく多くの作品に触れてみたい!と思っていた時期がありました。
そうやって色んな作品に触れていた中で、とある映画を見た時に、リアルだな、美しいな、綺麗だな、という感動を覚えました。
あえて作品名は伏せるのですが、後々その作品のレビューなどを読み漁っていると、
「結局最後、2人がどうなったのかわからない。」
「意味不明なシーンがある、いらないと思う。」
「いいキャストなのにセリフが少ない。もったいない。」
など、自分が得た感動とは裏腹に、かなり酷評されていました。
というのも、その作品は原作の小説がかなりの名作であり、それもあってか、期待はずれという感想が多くあったのを覚えています。
ここで僕が伝えたいのは、わかりにくいこと、どっちかわからないこと、つまり「曖昧」であることが、あえて表現としてなされていて、その美しさに目を向けて欲しいということです。
映画という作品は、小説と違って映像の作品です。
キャストのセリフひとつとっても、その語気や表情によって変化をもたらすことができますし、カメラワーク、カット割り、裏で流れるBGMなど、その作品の中では色々な表現が散りばめられています。
ではなぜ、わかりにくい、意味不明なシーンがあった、などと言われてしまうのでしょうか。
僕が思うに、今の流行として「答えあわせ」を求めてしまう流れがあるのではないかなと考えます。
いわゆる伏線回収とか逆転系の作品ですね。
それもエンタメとしてかなり優れたものだと思います。考察をする人たちも生まれ、大衆を惹きつけることができます。逆転劇もスカッとします。気持ちいいですよね。
でも!だからこそ!
「曖昧の美しさ」について考えてもらいたいのです。
僕が先ほどから例としてあげている映画には、大物俳優がヒロインの父親役で登場するのですが、退院した娘と一緒に旅行に行ったり、家でご飯を食べたりしている時も、ほとんどセリフがありません。
ただ、その俳優の方は、その表情や行動で、ヒロインであり病気と闘う娘を想う気持ちを表していたのだと思います。
他にも、主人公が並木通りで佇んでいるのを引きのカットで映している後ろでBGMだけが流れるシーンであったり、主人公とヒロインがただ見つめ合い、そのまま目を逸らして何事もなかったかのように次のシーンに行く場面であったり、これらにはそれぞれ何かしらの表現がなされているのだと僕は考えます。
そこで、そういった表現がなされたシーンに対して意味をもたらすのは、作品を見た僕たちのこれまでの人生だと思います。
そのような、答えのないシーンこそ、作品を楽しむ醍醐味ではないのでしょうか。
主人公が、ヒロインが、どんな思いをもってそこに立っていて、その表情をしているのか。見る側が何を思い、どういう意味を感じるのかによって、その作品のその表現の意味は変わるということが「曖昧の美しさ」なのだと僕は考えます。
やや飛躍するかもしれませんが、人間関係でもそうです。
コミュニケーションは曖昧です。
自分は分かりやすく、ストレートに伝えていると思っていても、意図通りに伝わっているとは限りません。自分が思っていることとは全然違うふうに伝わっていたりします。
その人が思っていることは十中八九、言葉と行動に表れます。ですが、100%、その人の想いを汲み取ることは難しいでしょう。
それはなぜでしょうか。
その言葉と行動の意味が、歩んできた人生、培ってきた価値観によって変わるからです。
大方伝わっていたとしても、細かい部分でズレがあり、それによって曖昧さがうまれ、相手に言いたいことが伝わっていない、コミュニケーションがうまく行っていない、という感覚になったりします。
そういった曖昧でわかりにくい部分、はっきりとしない部分、すなわちみんなそれぞれの「違い」というものを、完全に理解しようとするのではなく「美しい」と捉えて、みんなで愛せていければ、少し余裕も持てるのかなと思います。
今回も長々と書いてしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。