第3話 ヘラクレスの苦悩
3. 現在形(1) be動詞の文
(4月20日 ヘラクレス宅①)
ヘラクレスは一人、森の中をさまよっていた。
この森は傾斜が少なく、奥に進めば進むほど背の高い木々が入り乱れ、一度足を踏み入れた者は次第に方向感覚をなくしてしまうという非常に危険な場所だった。
見上げれば、新緑の若葉がわんさと生い茂る無数の枝が互いに重なり絡み合っていて、そこには太陽の光が差し込む隙間などほとんどない。
ゆえに足元はさらに暗く、地面は落ち葉と泥でぬかっているのだろう、ぬっ、ぬっと歩くたびにその巨大な足は、大地にテニスラケットにも負けないくらい大きな足跡を残していく。
木々の陰から、蛇か獣か、それとも人なのか、得体の知れない鋭い視線がヘラクレスの動向をじっと見つめていた。――
自分は大変な罪を犯してしまった。
が、誰にも知られたくはない。
なかったことにしたい。
できることなら、このままどこかに逃げ去りたい。
そういう思いが、ヘラクレスの頭の中を駆け巡っていた。――
どれくらい歩いたであろう。
疲れ果てた末にヘラクレスが辿り着いたところは、アポロンの神託所だった。
アポロンは光明の神であり、予言の神でもある。アポロンの神託(=予言)は、ギリシア神話の中でも最も権威があり、人生の岐路に立たされた者は一般市民、政治家を問わず皆、ここに足を運んだ。
入り口の少し手前の道端に、ローマ字で「NANJIJISHINWOSHIRE(汝自身を知れ)」と書かれた立て札があった。
ヘラクレスは朦朧とする意識の中、それを横目に神託所の中に入っていく。――
中はがらんどうで、石造りの壁に囲まれた空間からは、ひんやりとした霊気が放たれていた。
ヘラクレスは、正面の壁の上部にある小窓らしき穴をおぼろげに見ていた。
すると、
「どうした? ヘラクレス」と、どこからともなく声がした。
「はっ、今の声は? アポロン兄さん」
ヘラクレスにとってアポロンは頼れる兄貴的な存在だった。
ヘラクレスは救われたような気がして、その殺風景な神託所の中を見回した。
「何か、あったのか?」と、声は響くが、アポロンの姿はどこにも見当たらない。
「兄さん、俺はどうしたらいいのですか?」
「どうしたら、……とは?」
「こんなことが父ちゃんにばれたら、俺は、……」
「俺は、……何だ?」と、アポロンが落ち着きを払って聞き返す。
「え? 叱られるし」と、ヘラクレスは小声で言った。
「ほぉ」
「親に迷惑をかけるのも嫌だし、……」と、声はさらに小さくなり、ヘラクレスは言葉に詰まってしまった。
「自分だけで何とかしたい、と言うのだな」
「……」
「親思い、なのだな」
「……」
少し違った。――
幼い頃から何不自由なく育てられてきたヘラクレスは、表面上こそ親とはうまくやっていたが、実際のところ、親に対する嫌悪感がないわけではなかった。
そしていわゆる思春期に入ると、それは心の奥底で次第に強くなっていった。
が、父ゼウスはギリシア神話の最高神である。
逆らうことは決して許されない。
父親の顔色を窺いながら言いたいことも言えず、やりたいこともやれずにいたヘラクレスは、自分の情けなさにもやもやとした苛立ちを覚えていた。
一方、全知全能の神ゼウスは、事の一部始終を知っていた。
もちろん、ヘラクレスの心境も。
が、ゼウスはそのことについてヘラクレスに問いただすつもりはなかった。
少なくともヘラクレスが自分の意志で自分の口からそれを切り出すまでは。
ゼウスはそういう父親だった。
「親に知られずに済む方法はいくらでもある」と、アポロンは言った。「その代わり、罪を犯した以上、お前には罰を与えなくてはならないが、……よいか?」
「はい。親にばれずに済むのなら、どんな罰でも受けます」
「『どんな罰でも受けます』と言う以上、お前には罪を償う意志があると解釈してよいのだな」
「はい。相手には悪いことをしたと思っています」
「ではまず、相手に謝りに行ったらどうだ」
「……」
このときのヘラクレスは、「罪を償う」とはどういうことなのかを、まだよく理解していなかった。
が、これを機にヘラクレスは、償いの一生を歩んでいくことになる。
「それもできぬか」アポロンは小さな溜め息をついた。「まぁ、いい、……わかった。では、罰としてお前に、12の課題を与えることにする」
「12の課題? その課題を全部やれば、許してもらえるんですか?」
「許すのは私ではなく、お前が迷惑をかけた相手だ。それで許されたかどうかは、お前が12の課題を全部成し遂げたときに、お前自身が判断するがよい」
「わかりました」
「では、第1の課題だ。丸森に棲む不死身のライオンを退治せよ」
「ライオン?」一瞬驚いたヘラクレスだったが、腕力には自信があった。「はい!」――
当面の目標が決まったヘラクレスは、心晴れやかに神託所をあとにした。
「やれやれ」
「ご苦労さん」
「彼には時間を与えることにしました」
「よいのでは? あとはいつ『気付く』か、……だな」
「ええ」
アポロン、そしていつの間にか現れたゼウスの二神は、意気揚々と引き上げていくヘラクレスの背中を優しい眼差しで見送っていた。
一方、ヘラクレスは帰り際、道端にある立て札に気が付いた。
「何時、地震、お尻? なんじゃこりゃ、……変なの」
二神はそろってずっこけた。
「ども! 家庭教師のタムラです」
「よう、タムラ、……来たな」
「あ、お父さん、……わざわざ、お出迎え、ありがとうございます。ヘラクレスはおりましたか?」
「あいつなら、まだ帰ってこないな。何でも丸森に行ってくるとか、なんとか」
「丸森?(って、宮城と福島との県境の町だろ)」
丸森町。――宮城県南端に位置する自然豊かな町で、その北部には阿武隈川が流れている。町の至る所にヤマユリが自生し、香気の白い花が夏の野山を一斉に彩る眺めは壮観である。
そこへ、ヘラクレスが帰ってきた。
「ただいまー! 捕ったどー!」
「何を捕った?」と、ゼウスが聞く。
「ライオン!」と、得意気なヘラクレス。
「ラ、ライオン?」
俺は、唖然とした。
「毛皮にして、明日から学校に着ていく」
「そうか。んで、母さんに皮を剥いでもらえ。おーい、母さ~ん」
――て、お父さん、……マジですか。
「あ、先生、こんにちは。ちょっと待ってて下さい。今、こん棒を洗ってきますんで」
――そのこん棒で、ライオンさんをやっちゃったのね。
「んで、タムラ。あとは、よろしくな」
「は、はい」
ヘラクレスはすぐに戻ってきた。
「先生、お待たせー!」
「どぉれ、やっぞぉ。今日のテーマは『現在形(1) be動詞の文』ね。ところでbe動詞、って何だっけ?」
「is/am/are」
「そ。意味は?」
「『~です』みたいな」
「うん。で、be動詞には is/am/are と3つあるんだけど、過去を表す『~でした』じゃなくて現在を表す『~です』っていう意味だから、これら is/am/are のことをbe動詞の現在形、って言うよ。じゃあ、この is/am/are をどうやって使い分けるか、っちゅーと、……前回やった主語の種類、によって使い分ける。覚えてた? 主語の種類、……4つあったよね」
「んーと、I と、you と、……」胸で息を大きく吸いながら、腕を組むヘラクレス。「あれっ、あと何だっけ?」
「はい、すぐテキストを調べる!」
「えーと、……あ、あった。3人称単数主語」
「そ。I, you 以外で1人/1つを表す主語、ね。で、4つ目が?」
「複数主語」
「そ。2人以上/2つ以上を表す主語、だ。で、日本語の『○○は/××/です』っていう文、まぁ、英語の語順で言えば『○○は/です/××』だけど、その『です』にあたる is/am/are を今言った主語の種類、によって使い分けるわけだ。はい、<アテナの黙示録3>を見てみよう。
いがぁ、【1】ね。要するに、主語が単数のとき、つまり1人/1つを表す主語、のときは is を、主語が複数、つまり2人以上/2つ以上を表す主語、のときは are を使う、ってことね。で、ここが大事、……I と you は特別な主語なんだ、ってこと。I は『私は』っていう意味で1人を表す主語なんだけど、is ではなく特別 am を使う。you は『あなたは』っていう意味でやっぱり1人を表す主語なんだけど、is ではなくて特別 are を使いますよ、ってことね。よござんすか?」
「よござんす」
「『よござんすか?』って聞かれたら『結構でござんす』だ」
「結構でござんす。て、マジすか? それ」
「うん、……まぁ、それはおいといて。で、よく使う主語とbe動詞はね、もうそのまんまセットで覚えちゃいましょ。はい、【2】をご覧あそばせ」
すぐさま、ヘラクレスはテキストを見た。
「え? これ全部暗記しろ、ってことですか?」
「そのとーし! はい、上からジャンジャン読みぃ」
「アイ・アム、ユー・アー、ヒー・イズ、シー・イズ、イトゥ・イズ、ズィス・イズ、ザトゥ・イズ、トム・イズ、ゥイー・アー、ユー・アー、ゼイ・アー、ズィーズ・アー、ゾーズ・アー、トム・アンドゥ・アイ・アー」
「おしっ、もう1回!」
「アイ・アム、ユー・アー、ヒー・イズ、シー・イズ、イトゥ・イズ、ズィス・イズ、ザトゥ・イズ、トム・イズ、ゥイー・アー、ユー・アー、ゼイ・アー、ズィーズ・アー、ゾーズ・アー、トム・アンドゥ・アイ・アー」
「おしっ、もう1回!」
「アイ・アム、ユー・アー、ヒー・イっ」
「はい、かんだらやり直し~」
「そんな~」
「はい、さっさと読む!」
「I am, You are, He is, She is, It is, This is, That is, Tom is, We are, You are, They are, These are, Those are, Tom and I are, ふぅ」
「おしっ、……んで、見ないで」
「え? I am, You are, He is, She is, It is, ……あれっ、何だっけ?」
「ズィス」
「あ、そうだ。This is, That is, Tom is, ……え~と」
「ゥイー」
「あ、We are, You are, They are, ……え~と」
「ズィーズ」
「あ、These are, Those are, Tom and I are」
「はい、もう1回」
「I am, You are, He is, She is, It is, This is, That is, Tom is, We are, You are, They are, These are, Those are, Tom and I are, おっしゃー!」
「おしっ。んで、今言ったやつ全部、ノートに10回ずつ書きぃ!」
「マジすかぁ」
「マジっす。暗記するときはそうやって、目で見て、口で言って、手で書いて覚えるべし!」
「はぁ」と、渋々書き始めるヘラクレスだった。
――古いやり方かもしれないが、人間である以上、見ただけ、言っただけ、書いただけでは、なかなかものは覚えられない。暗記が全てではないが、初級英語(=高校入試/英検3級レベル)のテストで合格点を取るためには、理解とは別に単語も含めて基本事項の暗記、という作業がどうしても必要である。
「書いた!」
「おしっ。では、今のルールを使って、<スピンクスの謎3>をやってみよう。
んで、(1)から、答え入れて読みぃ」
「I am a student.」
「おぉ、なんで am を選んだの?」
「主語が I だから」
「そのとーし! その理由が大事よん。ちなみに意味は?」
「私は学生です」
「おしっ。んで、次、(2)」
「You are a student.」
「そ。なんで are にした?」
「主語が you だから」
「そのとーし!」
「意外と簡単だな」と、拍子抜けした様子のヘラクレス。
「そうだよ。英語なんてルールがわかれば簡単、簡単。ちなみに意味は?」
「あなたは学生です」
「おしっ。はい、次、(3)」
「She is a student.」
「そ。どして?」
「主語が she だから」
「そのとーし! ちなみに意味は?」
「彼女は学生です」
「おしっ。んで、どんどんいこう、(4)」
「We are students.」
「そだ。どして?」
「主語が we だから」
「そのとーし! we は『私たちは』っていう意味で、2人以上を表す主語(=複数主語)、だからね。ちなみに意味は?」
「私たちは学生です」
「おしっ。はい、ラスト、(5)」
「Tom and I am(×)」
「おいっ。この文の主語は?」
「あ、Tom and I か」
「そ。『トム』と『私』で2人、つまり複数主語、だ。よって?」
「Tom and I are students.」
「そのとーし! 主語がいつでも1語とは限らないからね。Tom だけ見てすぐに is とか、I だけ見てすぐに am とかって、やらないように注意だな」
「ウッス」
「ちなみに意味は?」
「トムと私は学生です」
「おしっ。以上、どっか質問ある?」
「特になし! です」
「んで、本日終了。おつかれさ~ん」
自分の部屋に一人残ったヘラクレスは、どこか淋しげだった。