見出し画像

松本零士先生から伺ったこと

2023年2月13日、漫画家の松本零士先生が亡くなられた。85歳であった。
訃報に接し、悲しいというよりはお疲れさまでした、という想いのほうが強い。
松本先生には、複数回ご自宅の事務所でお話を伺ったことがあり、おそらくは他の機会でも話されていたことばかりであろうが、記録としてとどめておきたい。

なお、お話を伺ってからかなり時間が経過しており、記憶違いなど、正確な発言内容とはいえない部分もあるかもしれないので、カギ括弧を付けずに、こんな趣旨の話だった、という表記にしている。

松本先生と私

私が松本先生の作品を意識するようになったのは月並みすぎるのだが「銀河鉄道999」であった。宇宙戦艦ヤマトの再放送は見ていたが、西崎プロデューサーの作品と認識していた。

999のTVアニメ版はなんとなく見ていた、という程度で、特にハマったわけではなかったが、同級生の部屋に劇場版の美麗なポスターが貼ってあったり、親戚の家には原作マンガや劇場版のフイルムコミックがあったりして徐々に興味がわいてきたものの、映画館に行ける状況にはなく、結局テレビ放送された「さよなら銀河鉄道999」を観てドハマリしてしまった。

その後のことは「さよなら銀河鉄道999-アンドロメダ終着駅-(ドルビーシネマ版)の感想」にまとめてあるので良かったらご笑覧いただきたい。

松本先生に初めて会っていただいた時のこと

2005年、初めて松本先生のご自宅の事務所に伺って話をうかがえるチャンスが巡ってきた。
こんなチャンスは二度とないかも、と思い、できればサインをいただきたいと、すり切れるほど観た劇場版999のLD-BOXと、ペンを持参し、鞄に忍ばせた。

雑談ができそうな瞬間がきたので、LD-BOXからライナーノーツを取り出し、先生にお見せしたところ、そうそう、この部屋でインタビューに答えたんだよ。(写真の自分が)若いね!と好意的な反応。そして、子供の頃、小倉の真っ暗な夜に火の粉を巻き上げながら走る蒸気機関車を観ると宇宙を飛んでいるみたいだったこと、999で地球を飛び立つシーンは自分が上京した際の経験がモデルとなったことなどを教えてくださった。

と、いうことでいただいたサインはこちら!サインを貰った際にネットへのアップについて許諾を貰っています。LDはまだ観れるのですが、今の感覚で観ると解像度が低くてちょっと寂しいです。

同行していた他の人が、色紙にメーテルを描いて貰っていた。自分はサインをいただくことが限界で、色紙は喉から手が出るほど欲しいがそんないきなり頼むなんて!先生は気軽に応じてくれたがなんと畏れ多いことだ!(しかもお前999ちゃんと観てないじゃないか!)と震えていた。
至福のひとときが終わり、いつか色紙に描いてもらいたいなあと思いながら帰宅したのを覚えている。

松本先生と戦争 マンガとアニメが世界をひとつに

幸いなことに、その後も何度か先生からお話を伺う機会があった。
さまざまな話をしてくださったが、戦争に関する話題が印象に残っている。
とにかく、松本先生は戦中戦後に大変苦労されたそうで、(戦争はもうこりごりだ)というお考えだった。また、アメリカに行ったとき、アメリカ人のファンと話をしていて、その人がアメリカによる日本への原爆投下を凄く気にしていたそうで、恨んでいない旨話したらすごくほっとしていたとのことで、アメリカ人も戦後苦しんでいたんだな、ということが分かったとのことだった。

松本先生は銀河鉄道999の創作前に世界を旅して、さまざまな冒険をした経験が作品に活かされているというのは有名な話だが、当時も世界中を訪れていて、行く先々で松本先生の作品のファンがいて、良くしてくれるとのことだった。マンガやアニメに国境や体制の壁はない、マンガやアニメが世界をひとつにできるんだ、という趣旨の話も印象深かった。

松本先生と創作

松本先生は、よく(創作は体験に根ざすものだ)という話をしてくださった。単眼のカメラで撮った画像と、人の両眼で見たものは微妙にちがうこと、奥行きもサイズ感も実際に見て体験しないとリアルに描けないとのことだった。
その上で、いろいろな経験を話してくださり、聞きながら(あ、それはあの作品のあのシーンのことだ!)と分かって楽しかった。
また、松本先生は若いクリエイターにあたたかいまなざしを向けていて、どんどん頑張って欲しいと話してくれていた。

一方で、自分が関わらなかった自分の過去作品のリメイクに対してはかなり否定的な発言をされていて、クリエイターとしての意地というか矜持を垣間見ることができた。ある作品については、自分が作ったとき、戦闘機の動きは全て実際の軍隊のシークエンスに忠実にしたのに(リメイク作は)全然違う、といった具合だった。

ファンと原作者の目線

あるとき、松本先生は、自分の作品原作のパチンコ機などは全て自分で監修しているよ、と話された。
私は、そうなんですね、と生返事をしてしまった。
というのも、ある銀河鉄道999のパチンコ機は、大当たり時の映像が新作で、999号が地球を飛び立つシーンをCG映像で作ってあったのだが、背景に現在の東京の夜景写真を使っていたのだ。機械化人の住む明るいエリアに対して、生身の人間が住んでいるエリアは真っ暗で、それを見た劇場版の鉄郎は、自分を送り出してくれた仲間を思い出す、という名シーンなのになんだこれは!?と憤っていたからだ。
ファンの方が作品に思い入れし過ぎてしまうものなのか?と感じた出来事であった。

真田さんの絵を描いていただいたこと

時は流れ2012年。松本先生のご自宅に向かう私の鞄には、色紙とサインペンを忍ばせていた。
もう色紙をお願いしても許されるだろう…
問題は、どのキャラクターをお願いするかだった。
用件が済んだところで、色紙を取り出しサインをお願いした。OKを貰えた!
私がお願いしたのは、メーテルでもハーロックでも古代でもなく、「宇宙戦艦ヤマトの真田さん」

真田さんは(色紙に)描いたことがないなあ、と言いつつも快く了承。どんな顔だった?と聞かれたので、スマホで真田さんの顔を見せると、ああ!とリズミカルにサインペンを動かし始めた。
描きながら、真田の名前は友人から拝借したんだよ、と教えてくれた。
…ちなみに私が先生に見せている真田さんは、ヤマト2199版のものだったが先生は何も言わなかったな。


じゃーん!こんなこともあろうかと貰ったこれが真田さんの色紙。 もちろんこれも、写真撮ってネットに上げていいですか?と松本先生に確認したところ、イイヨイイヨと諒承してくれた。
真田さん大好きなんですよ。実写映画の柳葉敏郎の真田さんも最高!

最後にお会いしたときのこと

松本先生に最後にお目にかかったのは、真田さんのサインを貰った翌年、2013年の年末のことだった。
もちろんお元気で、震災のことからエネルギー問題まで、いろいろな話を伺った。

エネルギー問題については、早く核融合発電を実現させて、エネルギー問題を解決して欲しい、月には三重水素が豊富にあるんだ、という話だった。
科学技術については、弟さんが技術者であることから、ここに記していない話題も含めてとても詳しかった。きっと弟さんの科学技術の知識は、先生の創作を背後で支えていたのだろうなと思った。

おわりに

松本先生から直接伺った話の一部をここに記したが、松本先生の視点としてとても印象深かったのは、次代を担う子供たちへのエールや、これからいかに子供たちに明るい未来を残すか、というものだった。銀河鉄道999でいうところの「永遠の命」とは何か、を先生自ら体現していたのだ。

松本零士先生のファンとして、ご本人に何度もお会いして、じっくりとお話を伺う機会を得ることができたのは、一生の宝だ。

先生本当にありがとうございました。ゆっくりとお休みください。
…もしかすると今頃天国で手塚治虫先生に再会して、作画のお手伝いをしているのかもしれませんね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?