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出来れば特別出演で

2024年は3曲を3か月連続でリリースいたしました。
年の瀬になるとなにかとバタついてしまうので、そうなる前に年内でそれら3曲についても考えたことを書き留めておこうかなと思っております。

てなわけで、今回は今年の9月にリリースした"ペンドロール"という曲にまつわる話をしようかと。
楽曲そのものについてはシバガキからも話をしておりすのでそちらも併せてご覧ください。


シバガキも"変化"について触れておりますが、この曲はミスタニスタの在り様と大変密接な関わりがある曲だと思っております。
だからこそこれから先長いこと演奏することになる予感がしている。
実はジョーザキも同じ様なことを言うている。なんか嬉しいよね、こういうの。


我々ミスタニスタの3人が一緒に音楽をやるようになって、もう13年とかそこらになるのだけど良くも悪くもミスタニスタはブイブイライブをかましていたころから変わっている。
ライブの本数は勿論、学生じゃなくなったり、各々の生活拠点やバックグラウンドが変わったり、3人で酒を飲むことがスタジオ終わりの恒例になったり。
最後のは10年前だと考えられないことで、いまだに3人で居酒屋にいると「えぇ…めっちゃ嬉し…」となる。

こうした変化の背景には各々の経験や考え方の移ろいとかがあるんだろうけど、それでも変わらず3人で音楽出来ているというのは大変ありがたいことである。
メンバーに対しては勿論、今のような活動ペースでもなおミスタニスタと一緒にライブしてくれる各所方々の皆々様におかれましても。
すごく自画自賛ではあるけど、ライブさせてもらえると「良いバンドやってんだな」と思えて毎度救われる気持ちになっております。
普段から感謝しまくると言葉が安くなるかもしれんなぁとは思うけど、思っているポジティブなことは伝えられる内に伝えといた方がよいのでね、ここでもね。

感謝もお伝えできたところでペンドロールの制作の時の話をちょびっとする。
話の発端が誰発信だったかは記憶が定かではないんやけど、確かジョーザキかシバガキ。
3人なので俺じゃないならそらそうか。
年に数本というペースではありながらもライブをちょこちょこしているのですが、ある時期から「今の我々って感じの曲、みたいなんがあっても良いかもね」といった話が出る。
これはウエムラもちょっと思っていたところではあった。
これまでリリースしてきた曲も言わずもがな大事で好きなんだけど、
語弊を恐れず言うとあの時期の我々があの時期の感性で打ち鳴らすことによる良さってのがあったと思っている。
逆に言うと今の我々が今の感性で打ち鳴らすことで良さを出す曲があっても良いのでは、みたいなね。

熟成肉ってものがあるように時間が経って育つ旨味みたいなものはある。
バンドなんてものは生身の人間が寄って集って出来てるものなので、各々が熟成すればそりゃその掛け合わせで生み出される旨味も変わっていくでしょうよ、といったことをその時期に考えていたわけです。
そんな具合で"新しいミスタニスタの曲"ってのがあると良いなぁと思っていたら、まさに話が出たので「よしきた!」と身構えていたわけです。

で、その翌日とかにシバガキ先生から上がってきたのがペンドロールのデモでした。早ない?
もうちょいかかるのが定石やろ。
いや早いのが悪いわけないので全然ええんやけどな?
なんていうか、こう、個人的なわがままを言えば
「どんなのが上がってくるかな?」
みたいなワクワク期間が欲しかったというかね?
いやええんやけどね?
俺はこいつの才能と努力を底抜けに尊敬しているが、たまに普通に怖くなることがあるよ。
新曲の話した翌日にデモ音源が上がってくるときとかね。

そんな具合であまりの早さにビビりながらも聴く。
そしてウエムラが想定していたものとは違うノリでビックリする。
言葉にするのは難しいのですが
今までは激しさと溌剌さみたいなのがあった一方で新曲は優しくて力強いなという印象。
けどその変化はまさにミスタニスタっぽい。だから腑に落ちた。
そうとなればその印象を根幹に据えて長く歌える歌詞を書くことにしようということで着手。
ミスタニスタのことを歌詞にすることは"暁の彼方"という曲でしていたのでもう少しデカいテーマを、もっと踏み込んで各々が織りなしていく生活とか人生とかそういうものについて歌いたいななどと思いつつ、ウエムラ主観で言葉を書き連ねた始めた次第です。

そもそもなんで人生について書こうと思ったんだという話をします。
俺は今年で32歳になるのだけど、30歳手前から「人ってマジで死ぬんやなぁ」と思う機会が増えた。きっかけは色々あるんやけど、自分が経験した交通事故と実家の犬が亡くなったことが決定打。
「あ、生きとし生けるものってマジで死ぬやん」と痛感したわけです。"死"に対する解像度の高さが上がる感じ。
生きてりゃ死ぬってのは当たり前の話なんやけど、それを肌で感じるというかガチでマジなもんだと思い知ったわけです。
"ガチでマジなもん"ってちょっとバカ表現過ぎるな、ええ表現があったら誰か教えてください。肉薄、とか…?
今も何処か他人事な感覚は拭えないのだけど、昔よりは自分事として捉えるようになっている。確実に。

そして明確に"死"という終わりを意識すると、
「どう生きていくか」というより「死ぬときどう振り返れるか」という軸が生まれる。
どちらも考えることは同じやけど、視点が違うというかなんていうかそんな感じです。
嬉しかったことや楽しかったことは勿論、悲しかったことや苦しかったことも含めて振り返って自分でどう咀嚼・嚥下できるか、これが結構大事かもと。
それが出来れば
「これが俺の人生でした!」
と胸は張れずとも後悔はなく死ぬことが出来そうだなと。
そうした考えの基で
「ほなこれからどないして死んで行きましょうかー!」
と言った具合で人生を歩むということに前向きに向き合ってみようと思い今回のテーマに至っております。

こっからがようやく考えていることの本題です。
毎度前置きが長くてすいません、「話が長い」とつい先日も仲良くしてもろてる先輩に言われました。

で、ですよ。
めちゃくちゃ擦られてる話ではありますが、生きることって死ぬまでまでの過程を全うすることじゃないですか。
そんで、"人生"っていうのは一個人が生きていく中でその人視点で織り重ねられる様々なイベントたちのことやと解釈している。
この人生ってやつは非常に厄介で、セーブ機能が実装されておらず、尚且つかなりの数のルート分岐がある。
なので基本的には1つの選択を行うと、残り全てのルートのエンディングは見れない仕様となっている。
ちょい別の話になるけど、"人生は神ゲー"という2ちゃんコピペがあり、これが好きで己を奮い立たせたいときに見返しております。
時間あったら読んでみてください。


"人生は選択の連続"ってもまた散々擦られた話ではありますが、これも本当にそうだなと思う。
ただ"選択する=他を全て無いものにする"みたいなニュアンスを感じてしまい、それがしっくり来ていない。
ただ感性の話でしかないんやけどね。
そこでその"しっくりこなさ"に対して何かしら自分なりのアンサーをアウトプットしたいという思いもあり、歌詞を書く際いろいろ考えてみた次第です。

テーマがデカすぎると解釈も人それぞれなので迂闊に言葉にするのは怖いのですが、
人生において度々ある局面で一つの選択をすることで、その他のルートはその場から一回消えるもんだと思っている。
18歳のときにある大学に入ったら基本的に別の大学に入ることは出来ないし、新卒入社は一回きりだし、一念発起して今からメジャーで50-50を達成はかなり難しい。
やる気があればなんでも出来る、みたいな話もあるけどこれは心意気の話であって、やっぱり限度はある。
だから、我々は人生で色んな可能性の内の一つを選ぶ必要がある。

そんなことを考えながら「俺の人生どんなだっけな」と過去を振り返ると
「あのときこうしていたらどうなったのか」
だったり
「あれがなかったら今頃こうだったかもな」
みたいな色々なタラレバが浮かんでくる。
したらば随分と色んな選択肢を知らず知らずのうちに削ってきたのだな、と感じてしまい俺はたまにちょっとダウナーな気分になる。
自分の人生が収束しているということを実感してやるせない、という感じです。

"選択する=他を全て無いものとする"というニュアンスでは捉えないように、と意識しているのだけど、それは自分がそういう感覚に陥りがちだからなんでしょうな。
意識づけで感覚の是正をしているのかもしれない。
なんでそんな感覚になるのかはわからないけど、ウエムラはかなり強欲で色々としたいことがあるからなのでしょう。

そしてそれらの選択には「したいからこうする!」ってものもあれば、「色々考えたけど、こうせざるを得ない」ってものもある。
例えば、「今日は寿司が食いたいから食う!」は前者で「本当は猛烈に二郎がの限定麺が食べたいけど、この後に人と会うから、一旦諦めよう」は後者。
かなりミニマムな選択の例えですが。
前者ですら「あぁ〜海鮮丼も良かったなぁ〜」となるのに、後者パターンも人生には織り交ぜられているため選択の規模に応じてこの辺でのウジウジも大きくなる。
それに加えて選択をする局面というのは、大概未来に関わることなので選んだ時点でそれがベストだと言い切れない。
それはつまりこれから後悔する可能性を孕んでいるということです。
そうなると勝手に頭の中で広げる仮定の展開に自分自身が自縄自縛の雁字搦めになってしまう。
我ながらダサいなぁと思うけど、怖いもんはやっぱ怖い。
選んだ答えを正解にするんじゃい!という気概は勿論あるがそうじゃないこともそれなりに経験すると、何か新しいことを始めるとか決断を下すってかなりエネルギーがいることだなぁと改めて感じる。
ただ時の流ればマジで容赦がないので、こっちのエネルギーの有無などお構いなしに選択の波は押し寄せて来る。きっつい話やでホンマ。

しかしながら選択するというのは悪いことばかりでもないな、今は思っている。
良い選択も悪い選択もひっくるめて「何故そうしたんだっけ」を思い返してみると、自分が何に魅力を感じて何が譲れないのかが浮かび上がって来るので面白い。
そうして過去振り返ってみると「あ〜ですよね」と妙な納得感があり、嫌なところも見えるのでちょっとしんどいけど自分の特性みたいなものがわかる。
多分これで見えて来るものが、その人の心のクセなんやろな。
自分で自分を理解するってのは難しいことですが、この試みは得体の知れない人がSNSで話すメンタルハックよりもずっと有用なんじゃないですかね。知らんけど。

自分の選択を振り返ることは、過去を自分の中で意味付けしていくような感覚がある。
で、そうやって自分の中で様々な意味付けされた選択やそれに伴って起こったイベント達を俯瞰することで自分がどんな人なのかがわかってくる。
そう考えてみると、選択することそのものは大変タフなメンタルが必要ですが、その選択とそれに付随する気持ちを見つめ直すことは己の価値観の輪郭を克明に縁取る手段の一つとも言えるんじゃないでしょうか。
選択肢が狭まるというと切ないが、選択に対して自分なりの意味を見出すことが出来れば、己の価値観が洗練させているのだと捉えられる。
そう思えれば必要以上に悲観的にならずに済みそうじゃないです?
そしてこの"意味付け"を行った上でこれからの選択することが出来れば、不確定要素が多い未来に対しての尻込みが多少はマシになるんじゃないでしょうか。
これが出来るのはやっぱり色々選んできて、それによって起こったことに蓋をしなかったからこそなんですよね。

ただその一方で選んだり、結果的にそうなったという事実の羅列とはまた別で心に残り続けるものみたいなものもある。
散々辞めてもやっぱり舞い戻ってしまうものや関わりがなくなってもふと思い出すものってあると思うのですが、そんな感じのやつです。
ウエムラにとって音楽はまさにそれ。
生活環境が変わっていく中で、継続が危ういかもということが実は結構あったのですが、やっぱり辞められてない。
あと全く連絡を取ってなくても、中学時代に一時期よく遊んでいた生徒会長のM君とかは地元帰ると思い出す。めちゃくちゃ面白いやつだったんですよ。絵がうまかったな。
最後に会ったときは「常にカバンに縄跳びを入れていて、隙あらばジャンプしてる」とわけわからんこと言ってたけど、今も元気だろうか。

流れで思い出に耽ってしもたけど、
そういった心に残り続けるものって感性にブッ刺さったものなんだろうなと思う。
なので多分おいそれと人生からリジェクトできるもんじゃない。
なので辞めそうになってもまた舞い戻るし、連絡取らなくなっても未だに「元気かなぁ」と思うんですわ。
コトにせよモノにせよ人にせよ、そういうものから見えてくるものは言ってしまったら、"心の嗜好性"みたいなもので、これもまたその人を形作るコアみたいなもんなんじゃないでしょうか。

そういう嗜好性のみに基づいて人生を突き進んで行くことが出来れば最高なんだけど、実際のところ色々あって叶えられないことも多々ある。
それでも容赦なく突き付けられる新しい選択の波と対峙すら必要がある。
そうなると嗜好性と自分の取れる行動にギャップが出てくる。
恐らくタラレバってのは単純に"選ばなかったルート"ってだけではなくて、そうした希望と現実のギャップが含まれたものたちなんじゃないですかね。
そしてそれらのギャップが積み重なったときが選ぶことが怖くなるときなのかなと。

この手のしんどさに対してさっさと楽になる方法はギャップに思い切り鈍感になって全部忘れてしまうことで、これも一手だとは思う。
けど、タラレバってのは自分のクセと嗜好性が詰まりつまったものでもあるわけです。
そう考えるとタラレバに対して鈍感になるのは自分で自分を蔑ろにしていることになるんじゃないかなと。
しんどくなるのは多分それらに対してまだ意味づけが出来ていないからなんじゃないかと。
冒頭の話に準えると咀嚼・嚥下できてない状態。
捨てられないから手元にあるわけであって、本当にどうでも良ければ思い悩むこともないやん。
街でオッチャンにぶつかられたとき、そん時は気分が悪いけど時間が経っても「あの時もう少し右側を歩いていれば…」とか考え込んだりしませんし。
そりゃ何度も同じようなことがあれば歩き方を考え直さなきゃいかんのだけど。

そんな具合に諸々を捉え直してみると今まで自分を後ろに引っ張るものと思ってたタラレバたちが"考えてもしゃーないもの"じゃなくて、むしろちゃんと未来に連れて行って考えるべきものなんじゃないかと思えてくる。
であれば悩むんじゃなくて、それに対して自分がこれから出来るベストってなんだろうと考えられるし、そうすれば前よりは前向きに選択の波と向き合えそうじゃないです?

いや普通に新しいもんで記憶を塗り潰す方がええやろ派の人もおられるでしょうが、少なくとも俺はそう思うので、今何が出来るというわけじゃなくとも、今後何か出来る時がきた時や似たことが起きた時のために考え続けることにしています。
人の根っこは簡単に変わらなくても、そこから取るアクションに進歩がないのは嫌やしな。
それによってしんどいことは確実ですが、考えずになかったモノにするのは性に合わないし、考え続けることでわかってくるものもある。
それらが良いものだろうと悪いものだろうと自分の人生にとって意味のあるものだったと思えるようにちゃんと何かしらの形にしていこうと。

その上で重要になってくるのは捨てられないものの大事に仕方なんじゃねぇのかなと思う。
その大事にしかたってのはモノによって異なるので正解はないんだろうけど、例えば今のミスタニスタはその一つの形かもと思う。
これはたまたま3人がミスタニスタを続けることに賛成だったという半端ない幸運の賜物でもあるんですが。
心持ちは自分一人でどうとでもできるけどアウトプットは自分一人で完結しないことも少なからずあるのでね。
好きなものに対しての関わり方となると、どうしても最初に抱いた希望の形が至高だと思いがちですが、上手くいかなかった時点で多分至高じゃなかったんですよ。
ラーメン二郎が好きやけんって毎日毎食食べてたら体壊すやん?その場その時での用法容量みたいなものはある。
思い通りにいかないと全部嫌になることもありますが、嫌になることで蔑ろになるのは自分なので腐らず大事なものは形が変わろうと大事にしようなどと考えております。

こうしてテキストにすると能天気な綺麗事でしかないけど、今すぐこの場で死ぬ度胸がない以上は極力死にたくならないようにやってくしかない。
小生はそんな気概を持って見苦しかろうと足掻き、納得できる死を迎える所存です。

そんなことを考えながら書いたペンドロールの歌詞がこちら。

分かりゃせんようなことばっかだな
飲まれちゃいそうだから蹴落とした
伝えそびれた 掴みあぐねた
実は幼かっただけだ
何をしょい込むか考えたら
いつも幸と不幸が舞い込んだ
裏か表か 嘘か真か
意味は後付けりゃ良いのさ

たられば 整理をする最中
貴方に聞かせたい歌が

「終わらない」なんて宣うから
飽きはせんよう全て持っていく
宛てはない そう、だから歩くよ まだ
「変わりないようね」とか言うけど
声はだんだん出なくなってきた
夜明かす度になぞっているのは
言うなれば"ペンドロール"だ

なんてことないが

未だ煩悩達が延長戦
未来は計画にコンバート
酷く矮小そして慎重な
握りしめて散った言葉

あの日は手放せてないまま

片付けはせずに取っといた
痛かろうが身に纏う魔法
夢に溺れりゃ 何か捨てれば
これは歌えなかったよな

喚くにゃ些か遅いが
頼りない瞬間にダイブする
息切れしてる"今"を看取ったら
いつか超大作にするから
それまではどうか取っといて
形はひしゃげていっても良いから

迎え撃て、エンドロールだ

当たり障りのない言葉はいらん

ウエムラの歌詞のメモより

ここまで長くなったけど最後にタイトルの話を。

走馬灯を見たことは今のところないけど、数年前死にかけた際、不気味なほど時間がゆっくり流れてたのを覚えている。
その感覚を根拠に「マジで死ぬ時はあれに過去の記憶が乗っかってくるんだろうな」と予想している。
それ以来、たまに「死ぬときにどんな走馬灯が流れるんだろう」と空想するのですが、それもまさに自分の人生を振り返る作業なわけです。
これまでに行った場所や出会った人、したこと、それを脳内でブワーッと流していく感じ。
これは映画なんかのエンディングに流れるメイキング映像みたいやなぁと思う。

歌詞書いてる時、色々考えながらこれまでの人生の振り返りをしていたのだけど、
その時も頭の中ではこれまでに起こった色んなイベントがハイライトみたいに流れていて、それに付随して色んな場所やモノや人を思い出しておりました。
その様はウエムラの人生のキャスト大集合って感じで、これもなんか映画なんかのエンドロールみたいだなと思ったわけです。
明日生きている保証はないけど未だ死ぬわけじゃない、というかまだ死ねない。
じゃあ今脳内で垂れ流しているものはなんなのかなぁと考えたら、死に様を考えながら垂れ流す未確定のエンドロールだなと。
いうなれば、ペンドロールってやつなんじゃないかと思いタイトルとしました。

そんなペンドロールを何度もアップデートしていく内に本当のエンドロールが流れます。
それが超大作になるのかどんなのになるかはわかりませんが、生きてりゃブラッシュアップはできそう。
ただ漫然と死を迎えるのは癪やし、どうせなら能動的に歳を食らって、余裕ありげに腕組みしながら死を迎え撃ってやりましょーぜ。
そしてもし可能であれば、コレを読んでくれている皆さまのエンドロールにミスタニスタやウエムラが登場できていれば嬉しい。
配役はこの際なんでも良い、けど出来れば特別出演とかそんな感じのええ感じのやつでお願いします、監督。

P.S.
ジョーザキが昔
「大事なんはチャンスが来たときに反応する瞬発力と掴んでからものにするための地力。」
みたいなことを言っていて、これがずっと心にある。
当たり前なんやけど、めーちゃくちゃええ言葉よね。忘れんようにしとこ。

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