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おもうこと

死を神格化される風潮を無意味にも 否定したく思い、そこから、言葉にしている

ただ、落ち込んだり、元気を出しながら生きてきた人達が 生きているってことに漠然と 恥じて 傷ついてしまうような風が通り過ぎ  生きている人を無視して 涼やかに 美しい言葉になっていくこの 風潮の価値観を無視出来なくなった  

10代の頃は特に この風潮に感化され 自傷的な気持ちが 強くなった  二階堂奥歯の本も持っている  気持ち  わかるからこそ   だからわたしは そうじゃないと思う側を発信したくてこれを 書いているだけだ

死という事象を発端に創作物が発見されてしまうことが  あまりに多い    それは、美しさのようで  残酷に写って仕方がない   その少女が願った最後かもしれないし、そうでないのかもしれないし、そこに首を突っ込むつもりは無い     けれどいつだって、少女たちは 名前じゃなくて、「亡くなった女子高生」というのから始まること 、生きているときにだって  その言葉は本物なのに、賞賛されるのが亡くなった後だなんて  なんだか その事象混じりに人の創作物が完成されて、評価されるのは、亡くなった人にも今を生きているわたしたちにとっても、なんか、どっちに対しても冒涜だし、おかしな話だと思う

死は救済  みたいな文言ばかり蔓延るこのインターネットだから  死を神格化されることや  精神的に巻き起こった負の事象が偶像的崇拝を高められることは 確実に ある

インターネットに留まらず  死の求心力は  凄く強い   だから あなたたちは  そんなものに おびやかされながらも  どうか しあわせになってほしい
今 これを熱心に打っていると ありが ウネウネ歩いているのが 見えた

たしかに 追い詰められて 死にたいと 素直に言ってしまった時の方が いいねがくるし  普通に生活してるときのほうが いいねといってもらうことは少ないものだ

さっきも書いたように  もともと 死というものや鬱屈としたものの方が 求心力がある    それだけ皆持っているもので   言葉の孤独を遮るものは あまりないから   だから  元々 負の言葉で人は繋がりやすいし  引きつけられるエネルギーは 莫大なのだと思う  だから  
むかし 私が落ち込んだとき 友だちが 悲しい時は 正しく悲しんでと教えてくれた
ほんとうに、そうだと思う し それを がんばってきた
だから みんながもし おちこんだときは  私もそう言う

死にたいと 言うなとか言わないとか そんな話では無い  言えばいい  わたし これからも どーせ言うし    選択したいなら することを 誰も 咎められない  

いきていることと 死ぬことは 同じ土俵だ
死ぬも生きるも 当価値であると 思う
選択されることも自由であるし、いないもの、今、居るもの  その全ては タイミングの合致等であり  境目を引かれるべきでは無いと思っている    

出来なかったことで、その人達より 苦しくないんだとか そういう劣等感を抱く人が 少しでも 減って欲しい


いまは 駅の前でオカンの車を待っている
日差しが まぶしいネ

どちらをとってもいいけれど  実行しないこと  光を諦めない強さであるし、誇られるべきことだ

死の発光力を浴びながら ひとりひとりがそういう輪を 潜り抜けてきて、それで今、この世界にいることを もっと 守られるべきだ

だからこそ、涼しい言葉で死を エモーショナルに甘く取り扱う流れを間違ってる  と   無意味かもしれないけど  あたしは再三言いたい  

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