戦後日本を支えたパンとパンの中身
1874年、「銀座木村屋」の木村安兵衛が当時まだパン食と縁遠かった日本での普及を目的に開発した酒種あんぱんは、日本人の口に合う酒種発酵種とあんと桜に目新しいパン生地が組み合わさって一気に市民権を得た。1927年には当時大流行していたカレーと豚カツからインスピレーションを受け、東京江東区の名花堂(現カトレア)2代目店主・中田豊治が惣菜パンの元祖「洋食パン(後のカレーパン)」を完成させた。
西洋の食文化をもとに、食べやすさや次の可能性を求めて少しずつアレンジを加えながら独自に花開いた日本のパン文化。その担い手であるシェフたちを「パンの中身」から支え続けるのが、大阪・堺に本社を置く田中食品興業所だ。
戦後間もない1940年代後半、その頃の麦といえばまだ国の直接管理下にあった。ひいてはパン食の需要も少なかったが、当時製菓製パン用のジャムやカスタードクリームの製造販売を行っていた田中善三郎はひとりその将来性を確信していた。
彼は仲間たちと集い、1949年に「田中食品興業所」を設立。事業として本格始動した。
終戦直後、世間の関心は「戦後の体力問題」に注がれていたが、この大きな原因のひとつとされたのが食糧不足だった。当時の新聞を見てみると
など、この問題を指摘するものが幾つも見られる。
「体力不足」への対策は、主に子どもの栄養改善が優先された。特に学校給食への期待は大きく、手軽で腹に溜まり、かつ栄養価の高いパンは戦後の学校給食の中心として一気に定着していった。そして1952年に砂糖と麦の統制が解除されると、製菓製パン業界は善三郎の目論見どおり急速な広がりを見せた。
田中食品興業所でセールスプロモーション部部長兼タナカベーカリー研究所副所長を務める斉藤真さんは、この頃のジャムやカスタードクリームの役割についてこう話す。
「当時のパンって今ほどふんわりしっとりとしたものではなかったので、ジャムとかカスタードクリームっていうのは味はもちろん食感を決める役割をしていたようです。精製度の低い小麦粉で出来た、ちょっと置いておくとすぐに固くなってしまうパンを食べる時のスムーサーの意味もあったんだと思います。ジャムと一緒なら食べやすい、とか、甘いものが入ってると唾液が出て咀嚼が進む、とか、そういう位置付けですね」