平手友梨奈のいた欅坂46が一貫して訴え続けてきたこと、ひとりのファンが受け取ったこと。"反抗心"ではなく"あなたらしさ"について。
東京ドーム公演のテーマ『Be yourself』
平手さんの脱退を受けて以下のツイートがバズっていた。
「サイマジョで華々しくデビューしたのに最後のソロ曲角を曲がるでは自分らしさを見失ってしまっている。なるほどなんて皮肉なんだ。」
歌詞の字面だけ捉えれば、確かにこのような感想が湧いてくる。
でも...なんか違う。何か違和感がある。
そう思って少し考えて、違和感の正体に気が付いた。
『君は君らしく生きていく自由があるんだ』と『らしさって一体何?』の"らしさ"は全然違うものだと思っていて、前者は君が君自身で信じた"らしさ"、後者は誰かが君に押し付けた"らしさ"だと思う。あなたらしさは、あなただけのもので、あなたの決断すべてによって形作られるものだと私は信じている。
うん、言葉にできた。曖昧で不可解な感情は言葉にできて初めてスッと飲み込める。やっぱり言葉の力は偉大だ。
で、先のツイートをしてみて気付いたというか、再認識したことがある。これまで欅坂46が楽曲に込めてきた思いは一貫していたということだ。
振り返ってみると、東京ドーム公演のテーマは『Be yourself』だった。
だからこの機会に欅坂46の伝えてきた"あなたらしさ"についてもう少し深く考えて、そして言葉にしてみたいと思い、note を書き始めた。書き始めて 5 日経ったけど、どうにもこうにもしっくり来なくて、 3000 字を超えていた下書きを放棄して私はいま衝動的に文章を書いている。多少の読みにくさは許して欲しい。
初めに注意書きをしておく。
平手友梨奈を好きになればなるほど深みが増してきた言葉、正解も間違いもない。何が言いたいかって、ここから先に書く文章はすべて、私のこれまでの欅坂に関する経験とそうでない経験を含むすべての上に成り立った自己満足の世界で、ただそれだけだということだ。そう言いながらも note で全世界に公開してしまうのは、私が他人に共感されることを喜ぶ人間だから。孤独は好きじゃないし、反応があると嬉しいのでコメントやRTも嬉しい。あなたの気が向いたら、読んでみて。
欅坂46の楽曲から受け取ったこと、ひとつの解釈
"サイレントマジョリティー"
欅坂46を語るのにはやっぱりこの曲からだ。初めに研究室の先輩に教えてもらってMVを観たときは「なんか全員おんなじ顔に見えますね笑」なんてドルヲタが友達に言われる言葉ランキングTOP10に入りそうな言葉を返したけど、今となってはこの歌にもらった勇気は計り知れない。ありがとう先輩。
君は君らしく 生きていく自由があるんだ
大人たちに支配されるな
初めからそう諦めてしまったら
僕らは何のために生まれたのか?
「お兄ちゃんなんだから」「女の子らしくしなさい」「男らしくないやつだな」「先輩らしく」「学生らしく」「社会人らしく」そして「アイドルらしく」「センターらしく」......「平手友梨奈らしく」
例を挙げてみれば分かるように、人は生きているだけで何かのレッテルを貼られることになるし、無意識のうちに「らしく」あることを求められ、求めて生きている。
これらのレッテルは一体いつ生まれたのだろう?
考えてみるに、過去に素晴らしい兄が、女の子が、社会人が、アイドルが、あるいは「過去の自分」がいたから、そこに「理想のあるべき姿」が生まれたんじゃないだろうか。少年野球のコーチがこぞってイチローをお手本にするように、かつて魅せた最高のパフォーマンスを再び平手友梨奈に求めたように、その理想像はきっと多くの人にとって"正解"であっただろうから、みな大きな疑問を抱くことなく理想像を他人に当てはめてしまう。そして、当てはめられた方すら違和感を抱かないこともある。
でも... YES でいいのか?
あなたの求める姿は過去の誰かの踏襲でいいのか?過去の誰かの理想を、他人の掲げる理想を追い求め続けて一体その先に何があるか?それはあなたが欲したもの?
僕らはなんのために生まれたのか?
サイレントマジョリティーの本質はそういった"気付き"にあると思う。別に周りと同じような人間を目指す様を滑稽だと馬鹿にする訳でも、誰かと違うことをやれと捲し立てている訳でもない。同じでもいい。ただ、『自分の意志を考えたことがあるか?』そこにすべてが込められている。
そんな気付きを与えてくれた後、サイレントマジョリティーが切り拓く世界はとても輝かしい。だからここで私はライブでのおすすめポイントをひとつ伝えたい。
"ここにいる人の数だけ道はある 自分の夢の方に歩けばいい" このとき会場にいくつの緑色の光が灯っているか見渡してみる。それだけ。意味は語らずとも伝わるはず。アイドルのライブならでは。
そんな訳で、サイレントマジョリティーは
「君らしく生きていい」と、大事な気付きを与えてくれた。
まさに欅坂の始まりにふさわしいと振り返ってみて思う。
そしてこれから先に登場する曲たちは、
自分らしさを守るためにどう動くか、そこが微妙に違ってくる。
"世界には愛しかない"
後述する不協和音やガラスを割れ!の力強いイメージが先行する欅坂にとっては異色の曲だが、世界には愛しかないの根底も"あなたらしさ"にある。いわば"あなたらしさ"を目指す人間にとって理想の世界とも言えよう。
世界には愛しかない(信じるのはそれだけだ)
今すぐ僕は君を探しに行こう
誰に反対されても 心の向きは変えられない
それが(それが)僕の(僕の)
アイデンティティー
"世界には愛しかない”
この平和ボケで楽観主義な信念を持って、主人公は動く。欅坂の楽曲の中で最も確固たる"あなたらしさ"を持っているのがセカアイの主人公だと思う。"傘がなくたって走りたい日もある"と自分の衝動の赴くままに走り出してしまうこの曲の主人公が愛おしい。主人公には夕立や予測できない未来さえ、きっと希望に変えていく力がある。
全力で走ったせいで 息がまだ弾んでた
自分の気持ちに正直になるって 清々しい
僕は信じてる 世界には愛しかないんだ
最後の平手さんのポエトリーに象徴されるように、自分の気持ちを一番に信じて行動してきた主人公はとても清々しそうだ。
何が正しいかわからないこの世の中、どうせ信じるなら"愛"とか"希望"とか、そういうポジティブなものが素敵じゃないか。私もそういうのが好きだ。欅坂46を取り巻く世界が、本当に愛だけだったなら......(そう願って消えていったヲタクは多い...)
なんにせよ、"世界には愛しかない"などという、掲げれば即座に夢想家と揶揄されかねないこの信念を、誰よりも強く信じて貫き通す主人公には、確固たる"あなたらしさ"があるのだと思う。
"不協和音"/"ガラスを割れ!"
悲しいことに、世界には愛しかない、訳ではない。
何が"あなたらしさ"なのかはさておき、ここにいる人の数だけ夢があり信念があるなら、必ずそれらはぶつかってしまう。夢同士のぶつかり合いなら青臭い青春映画のひとつもできそうだが、現実にあなたの前に立ちはだかるのは淀んだ空気のように掴めない何かだ。それは例えば、ある集団の中での"空気を読め"という空気だったりする。
不協和音、ガラスを割れ!の主人公はとにかく譲れないものを持っているらしい。それが何かは分からないが、譲ってしまったら「何の為に生まれたのか分からなくなる」ような、そういうものだ。それを守る為なら、どんな犠牲だって厭わない。そういう力強さが、この 2 曲にはある。不協和音がしばらくの封印期間を経て復活した時、そこに"悲しさ"が込められた曲に成り代わっていたのには驚いたけれど、同時に納得もできた。黒い羊に通ずるものがあったからだ。(そうやって楽曲を変化させる欅坂の魅力は二人セゾンの"生きるとは変わること"に凝縮されていると思う。二人セゾンだけでいつか記事1本書きたい)
"黒い羊"
黒い羊; Black Sheep は英語で『除け者』を意味する。普通の白い羊の群れに混ざってしまった一頭の黒い羊は、群れにとってまさに異質な存在で、除け者というわけだ。
曲中には群れの中で孤独を感じる黒い羊の嘆きが散りばめられている。
反対が僕だけならいっそ無視すればいいんだ
みんなから説得される方が居心地悪くなる
目配せしてる仲間には 僕は厄介ものでしかない
さて、ここで質問をしてみる。
「あなたは"白い羊"ですか?それとも"黒い羊"ですか?」
初めに黒い羊を聴いた時、正直この曲は共感を得にくいのではないかと思った。例えばサイレントマジョリティーはその言葉通り大衆を対象としている。不協和音やガラスを割れ!には「譲れない"あなたらしさ"を守るために時には声を大きく上げて主張することが大事だ」と思わされる人も多いだろう。でもきっと、黒い羊は違うと思った。なぜなら私たちは大抵黒い羊の主人公ほどに孤独になることがないからだ。どう考えても黒い羊の主人公は世界のマイノリティーだし、聴いている自分に当てはまるものではない。
そう思っていた。
黒い羊の凄さはラストのどんでん返しにある。
自らの真実を捨て 白い羊のふりをする者よ
黒い羊を見つけ指をさして笑うのか?
"黒い羊"からのたった 10 秒間の問いかけによって、私たち"白い羊"と"黒い羊"に明確な境界線などないことに気づかされる。
"黒い羊"は変わり者ではなく、実は"あなたらしさ"をどうしても妥協することのできなかった人間にすぎない。そして"白い羊"だと思っていた自分は偶然"あなたらしさ"を妥協する必要のなかった幸運者か、あるいは妥協してきたかのどちらかだ。
もしこの曲からそんな気付きを得ることができたなら、きっと私たち"白い羊"には優しさが生まれるだろう。そして"黒い羊"にとってこの曲は、優しく寄り添ってくれる大事な一曲になったのではないだろうか。
"あなたらしさ"について考える
これらの楽曲を披露してきた欅坂46のパブリックイメージといえば「社会や大人への反抗」「笑わない」「暗い」「孤独」といったところだろうか?
不協和音やガラスを割れ!に象徴されるように、その解釈はあながち間違っていないとは思うが、欅坂46の本質は反抗や孤独よりも"あなたらしさ"を求め続けることにあったのではないかと思う。
東京ドーム公演のテーマ"Be yourself" を言い換えれば、他人から求められる"あなたらしさ"ではなく、あなた自身の信じる"あなたらしさ"を何よりも大事に生きて欲しい。そんなメッセージだったと私は思う。「僕は嫌だ」という叫びや「ガラスを割れ」はそのための手段のひとつであり、決して欅坂46が伝えたかったことの本質ではないのでは?
平手さんが怪我や体調不良でセンターを務められなかったときの代理センター達が、平手友梨奈の代わりではなく、当人たちそれぞれの解釈を曲に与えてきたことは、欅坂ファンならみんな知っている。欅坂46はセンターというポジションよりも、誰がその場所に立っているのかを大事にしてきた。
"らしさ"って一体なに?
ここまでいくつかの表題曲を紹介しながら欅坂46がいかに"あなたらしさ"を求めることの大切さを伝えてきたのか語ってきた。しかし、欅坂46はこれまで1度も"あなたらしさ"に正解を与えていない。センターによって表現が変わっていたことは、そこに正解がないことを意味する。
ここでいう正解とは誰がみても正しいと言える客観的な事実。つまりその判断基準はあなた以外の誰かにある。もし欅坂があなたの"あなたらしさ"に正解を与えてしまったら、それはもうあなたにとっての"あなたらしさ"でなくなってしまうという矛盾を抱えている。
"角を曲がる"
らしさって一体何?
あなたらしく生きればいいなんて
人生が分かったかのように
上から何を教えてくれるの?
周りの人に決めつけられた
思い通りのイメージになりたくない
そんなこと考えてたら眠れなくなった
だからまたそこの角を曲がる
角を曲がるは、他人から"あなたらしさ"を求められ続けた人の苦悩の曲だと思う。もっと言えば、私には「平手友梨奈」の曲にしか聴こえなかった。
「平手友梨奈らしいパフォーマンスを」
「アイドルらしい笑顔を」
「プロらしくやり遂げろ」
たくさんの声があっただろうし、きっとその声には"正解"も含まれていたと私は思う。例えばファンがお金と時間を払って赴いたライブで、笑えない、踊れないは普通に考えて許されることではない。私も名古屋まで行って会場で当日欠席を知らされたことだってある。きっと私にはそれを非難する権利があると思う。しなかったけれど。
そんな風に、彼女にはできないことが多かった。
なぜできなかったのかは知る由もない。公にはできない致し方ないトラブルがあったのかもしれないし、やる気が出なかっただけかもしれない。でも知らないことを語る権利は私にはない。ただあるのは「私がお金と時間を費やした行為に対して、彼女は現場に現れなかった」という事実だけだ。
そして一方で、彼女はできた。
普通の人にはできないようなパフォーマンスができたし、たくさんの人が心を打たれるパフォーマンスができた。私も何度も心を打たれた。その経験があるから、自分の行ったライブで彼女が本調子でなかったとしても、150% のライブをみられる可能性がある、というだけでまた次のライブにも行った。
そうやって求め続けてきた。
平手友梨奈らしいパフォーマンスを。
2020.01.23
彼女はひとつの角を曲がった。
周りから求め続けられた"らしさ"にきっと苦しんだのだろうだとか、そうでなくとも悪意のある批判に疲れたのだろうとか、色々と想像することはできる。どこかの週刊誌みたいに辻褄のあうように都合のいい憶測を並べることはできるが、そんなものには何の意味もない。真実は本人の「話したい時」が来るまで分からないだろう。
ただひとつ言えることは、私を含めた周りの人たちが平手友梨奈に求めてきた"あなたらしさ"は、"平手友梨奈らしさ"になり得ないものだったのだろうということだ。なぜならそれは"私たちの決めた平手友梨奈らしさ"だったから。
だから私は"あなたらしさ"をこう定義することにする。
あなたらしさは、あなただけのもので、あなたの決断すべてによって形作られていくものである
平手友梨奈さんがこれから先の人生で
"あなたらしく"生きられますように。