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みなさんのところにはサンタ来ました?

「サンタクロースをいつまで信じていたいかなんてことは─」

という書き出しはあまりにも有名で、ある一定の層にクリティカルヒットしていたことは言うまでもないだろう。むしろ知名度だけが一人歩きして、今中高生とかは逆に知らないんじゃなかろうか。

とはいえ、実際にサンタクロースをいつまで信じていただろう。

こういう話題をすると、

「え、知らないの?サンタクロースは実在するんだよ、手紙も出せるし返事も来るし、サンタクロースになるための試験だってあるんだから」

とか

「私はサンタクロースっていると思うな。子供達のためを思っておもちゃ屋さんに並ぶお父さんお母さんはみんな誰かのサンタクロースだよ!」

みたいな素っ頓狂なことを言うメルヘンロマンチック温室育ちの脳内花畑ピーポーがたまにいますが、ここで話題に出しているのは、トナカイにソリを引いてもらって星空を駆け抜けながら、本来出口であるはずの煙突を自分ルールで入り口に変えてプレゼントを届けてくるような、そういうUMA的な存在としてのサンタロースのことを言っているのであって。

話を戻しますが、そういうサンタクロースをいつまで信じていただろうか

私なんかは小さい頃から今と変わらず聡明な子どもだったので、小学校3年生、年齢が2桁になるであろうかという頃には気づいていてたような記憶がある。

あんまり自分ばかりをえこひいきすると角が立ちそうなので、私のちょっと可愛いお茶目エピソードを挟んでおくと、サンタクロースが実在しない存在であるという認識の影響を受けてトナカイも実在しないものだと思っていた時期がある。中1くらいまで。

ほら、ペガサスとかユニコーンとかあの類だと思ってて。どうですか?お茶目でしょう?

そんなキュートでクールな子どもだったので、私の両親も「夜知らないうちに届いてる方式」のサンタクロースから、「クリスマスだしプレゼント買ってあげるよ方式」に私が小学4年生頃に変更、小学校6年生で全方式廃止の方針をとっていた。

当時はサンタクロースはいないと私が気づいたからプレゼントをくれなくなったのだと思っていたが、親の立場になって考えてみれば特に何もしてないのにここぞとばかりにモノをねだってくるということを疎ましく感じたのかもしれない。

もし私が本当に聡明な子であれば、気づかないフリをしてプレゼントをもらい続けていたかもしれないと考えると忸怩たる思いである。ここから知識をひけらかさないことの重要性を学んだと言っても過言ではない。

しかし最近になって気づいたのは、サンタクロースっていう存在において重要なのが、プレゼントそのものではなく、プレゼントを「渡す」という行為であるということだ。

そりゃ子供からすれば朝起きて枕元に仮面ライダーの変身ベルトやゲーム機があったら嬉しいだろう。私だって嬉しい。誰かください。

しかし真に喜ぶべきなのは、クリスマスという日に自分のためにプレゼントを渡してくれる「人」がいることだ。

家族にせよ恋人にせよ、自分の喜ぶ顔を想像してプレゼントを用意してくれる人がいるその素晴らしさに、ありがたさに気づくにはあの頃私は幼すぎた。

クリスマス関連でいえばケーキだってそうだ。なんでクリスマスにケーキ食べるのか常々疑問だったが、上記のように考えれば想像がつく。

大事なのはケーキを食べることそのものではない。一人では食べられないようなホールケーキを誰かと分け合いながら食べること。分け合う相手がいることが重要なのだ。(だから私は一人でケーキを食べない。甘いの苦手だし)

ケーキもプレゼントも、特別な日に相手の喜ぶ姿を想像したり、自分のことを思ってくれるような人と過ごしたり、楽しい時間を分かち合えるような人がいることを再確認し改めて感謝するための手段に過ぎず、本来クリスマスはそういう日なんだろうと思う。

そんな日に他人の幸せを妬み僻み恨み嫉む輩がいるのが残念で仕方がない。彼らには一刻も早く自身がサンタクロースと真逆に位置していることに気づいて欲しいものである。

P.S というか はじめに。

今日同じ空間にいた男子大学生が
「今母親から急に電話かかってきて、安いカードゲームなら買ってあげるよって電話してきてマジビビったわ〜」
みたいなことをお友達と話しておられて、心の中で
「いや大学生にもなって母親にクリスマスプレゼントもらうなよ。しかもカードゲームて。時計とか服とか年相応のものもらえよ。だっせえ」
などと思ってしまった私であって、これはそんな私への戒めであり自省の文章である。

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