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いいこと言いたい

noteを開くのが数億年ぶり(ではない。正確には。みくのしんさんの日記とか、めっちゃ読んでるから)なのだけど、暇つぶしに、と書いてみる。

noteをよく書いてたのは2019・20年ぐらいだったと思う。なにかいいことを言ってやろう、言いたいと思って、タイトルに工夫を凝らしたり、情緒的な(しかし写実的ではない)内容のものを書いたりしていた。とにかく「風」な文章を書いてたなーと、今になって思う。でもそれはそれでいいのだ。何かを書いたという事実はいつまでもこうして残るのだから。

今。ドジャースvsメッツの試合を見ている。大谷のズボンが破けているのが気になる。ばあちゃんが切ってくれたりんごをたくさん食べる。この時間だけ切り取ると今までと変わらないと感じる。
でも、わたしは去年の9月に引っ越しをして実家を出た。なので、変わらない、ではなく、懐かしい、と感じる方が適切なんだろう、きっと。

家を出て1年経ったが、名古屋市内から出たわけでないので1ヶ月に一回は実家に帰っている。変わったことといえば、日曜の朝はばあちゃんと一緒に礼拝に行くようになったことだ。
私の祖母は中学生のころにしっかり(?)洗礼を受けたクリスチャンだ。高校はミッション系の学校に入ったし、家には聖書関係の本やら、ヘブライ語辞書やら、神学系の本がぎっしりとある。かれこれ60年ぐらいの信仰があるのだろうか。洗礼を受けていない、いわゆる求道者と呼ばれる私からしたら途方もない時間、神を信じている。
なんで私も教会に行くようになったか、というと「成り行き」でしかなく、ちょっと近所のコンビニ行く?みたいなノリで、教会に行ってみる?と言われて、行くか〜と思ったのだった。
それまでも家に居るときに教会の話や聖書の話を度々聞いていたので、すこしばかり(ほんのすこし)馴染みがあったのだった。

礼拝と聞くと信仰のない人間からするとかなり堅苦しいものであると思えるが、実際には祈る。ただそれだけであり、非常にシンプル。教会に集まる。聖書を読む。讃美歌を歌う。やることは多いのかもしれないが、いきつくところはすべて祈りであり、賛美だ。

なんかこの話を書くと長くなりそうだから、いったん控える。こんなんばっかだな。勢いで書くとこうなる。でも、いいんだよーそれで!いいこと書きたいと思わらない、言ってやろうという筆ではない、ただのわたしの文章でいい。

今日はこのあと家に帰るついでに、ジムに寄ろうと思う。実家の洗面所には大きい鏡があるのだが、それに映る自分の姿が惨めにも程があったから…………やったらぁ!!!!

サポートの意味があまりわかっていませんが、もしサポートしていただいたら、詩集をだすためにつかったり、写真のフィルム代にとんでゆきます。