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神は、あなたの全てを許し、愛している。


神の愛と、人との愛の違いについてのメッセージ。

今回は、神のメッセージの前に、私の日記に書いたものから紹介させて頂きます。
神のメッセージが、その日記に書いたものを受けてのお話しだったからです。
悩む者に対し、神が応えてくれる事を知って頂ければと思います。
かなり長いメッセージになっています。
お時間ある時にお読みください。

6月25日の日記より
昨日、自分がまだ戦っている事に気付いた。
自分の不運さ、自分の不幸、ネガティブな呪いに抗っていたことに気付く。
それこそ、自我やエゴの仕掛けてくるゲームなのだ。
不幸を怖れて、自我に頼ろうとする。
常に周りを監視して、悪い事が起こらない様に身を守っていた。
何か少しでも危険を察知すると、必要以上に騒ぎ立てて、何倍も大きな事に、自分で仕立て上げてしまう。
不幸に対して、過敏になっていた。
それが、自分の人生を余計に悪くしていたんだと気付く。
不幸を怖れれば怖れるほど、不幸へと引き寄せられていたのだ。
不幸にフォーカスすれば、それしか見えないのだから、当然だ。
幸せな事に、フォーカスしよう。
今まで気付かなかった小さな事も、見えてくるはず。
自分が、拒まれていたのではない。
自分が、怖がって拒んでいたのだ。
この世界は愛で溢れている。
愛にフォーカスすれば、見えてくる。
愛じゃないものにフォーカスすれば、愛は見えなくなる。
それだけの事だった。
私はまだ、愛を大切に扱えない。
「愛なんて役に立たない」そんな思いがどこかにある。
愛をぞんざいに扱ってしまう。
愛の扱いに慣れていない。
愛を受け取る事に慣れていない。
「自分になんか、くれなくていい。そこまで、してくれなくていい」
自然とそう思ってしまう癖が付いてしまってる。
愛を拒んでしまう癖がある。
気付いて、少しずつ直していこう。
離婚したら、すぐ次の自分に変われると思っていた。
新しい人生が始まると思っていた。
でも実際は、全てが止まってしまったみたいで、何も進まない。
そのことが怖かった。
不安でたまらなかった。
でも、立ち止まることが、必要だったのだ。
私はまだ、分かっていないことが多かった。
身につけてきた事が、ことごとく「不幸になる癖」だったんだ。
それに気付いて、一つ一つ外して行く事。
そのために自分と向き合わされている。
時間が止まって、自分だけ世界に取り残されたみたいな時間の中で、私は私を深く知るのだ。
私は今、サナギの状態なのだろう。
外界から閉ざされた自分だけの世界で、自分の中を探って、ぐちゃぐちゃになって、古い自分を壊して、新しい自分を創り上げているのだろう。
混沌の中で、新しい私が目覚めるのだろう。
目覚めるまで、もう少し待っていよう。


〈神のメッセージ〉
私は、あなた方に必要以上に干渉はしない。
あなた方が信じるような、罰を与えることもない。
あなた方は、ただ、行ったことの結果を受け取っているにすぎない。
それを、私からの罰などと思ってはならない。
それは、現実を歪めてしまうからだ。
起きた事を、冷静に深く見つめなさい。
それは、原因と結果であり、その間に私の意志は存在しない。
正しく理解しなさい。
そして、自分の行動を見直しなさい。
起こる不幸には、理由があるのだ。
それは、外側にではなく、あなた自身の中にある。
あなたの心が、満たされ平和であれば、不幸は訪れないのだ。
あなたの心が、不平不満に満ち、穏やかさからかけ離れていれば、その心にふさわしい出来事を引き寄せていくのだ。
だがその事にも、あなた方は不平を言うだろう。
元から幸せな人は、幸せであり続け、不幸な人は不幸から抜け出せないのかと。
あなたは、気付いていないのだ。
それこそ、あなたの怒りではないのか。
あなたは、私に怒り、私に毒を吐いているのだ。
それでも、私はあなたを責めることはない。
あなた方が、人として生き、その成長のために苦しんでいる、その過程にいると知っているからだ。
あなた方が、どれだけ私を憎み、唾を吐き、否定しようとも、私はあなた方を許し、理解するのだ。
あなたが、不幸の中に生まれ、そこから抜け出せないというのなら、私のもとへ訪れなさい。
憎む者へ心を開くのは、難しいだろうが、それでも来て欲しいのだ。
来て、私に怒りをぶつけても良いのだ。
それは、ただ心の中で私を呼び、怒りをぶつければいい。
教会でも、神社でもいい、私を呼べば私はそこにいるのだ。
私に思いの全てをぶつけなさい。
怖れることはないのだ。
私は愛である。
あなた方人間の理解を超える程の愛である。
私の愛を、あなたはまだ知らないのだ。
私の愛に触れ、私の愛に気付きなさい。
感じ取れないと落胆しなくていい、あなたの意識ではなく、あなたの無意識は私に触れ、私を知るのだ。
そこから、あなたの無意識下に私の愛は広がっていくのだ。
あなたは気付かなくとも、あなたは癒されていくのだ。
それは、あなたの意識には、気付かれない神の業なのだ。
だが、そのために、またあなたは私を忘れ、私から離れてしまうのだ。
そしてまた、自我のコントロール下に戻ってゆくのだ。
そうして、また不平不満のうずに巻き込まれ、私を憎むのだ。
あにたが、自身の不幸にうんざりしているのなら、これまでのパターンを変えなさい。
無自覚に行ってきた、そのパターンに意識を向けるのだ。
あなた方は悲しみ、苦しみの中にある時、何を求めているか?
救いであり、助けを求めているのではないか?
その声に応えているのは誰であるか?
私以外にいないではないか。
だが、あなた方は、私を感じられないからと、私の救いに気付かず、自力で癒され助かったと信じている。
あるいは、他の人の力であると信じている。
だが、あらゆる癒しは全て、私の力が働いているのである。
人はそれに対して抵抗する。
神の力ではない、人の力だと信じたがる。
私はそれも許している。
人が人以上の力を発するとしたら、それは私と繋がり、私の力を使っているのだ。
それさえ信じないと言うのなら、私はそれも許すのだ。
だが、あなたが私の癒しを信じないのならば、あなたは真の癒しにも、不幸の連鎖を止めることにも、辿り着けないのだ。
私の元に帰ることだ。
人というものへの過信を捨て、私の元に帰りなさい。
あなたは充分に人を信じ、それ故に傷付いてきたではないか?
まだ、やみくもに信じるつもりか?
まだ、自身を傷付けるつもりか?
あなたは、あなたを守る為にも私の元に帰りなさい。
そして、私の愛と癒しを信じなさい。
私の前に全てを投げ出し、あなたの全てを私に見せるのだ。
私への怒りも、憎しみも、恨みも全て、曝け出しなさい。
私への不信も出していいのだ。
そして、あなたの中のか弱い子供を見せなさい。
その子は、震えながら私の愛を求めるだろう。
それが、本来のあなたの姿なのだ。
誰もが愛なしには生きられないのだ。
あなたの真の姿を見つけ出しなさい。
その真のあなたの求めるものを求めなさい。
あなたは愛を求めている、そう自覚しなさい。
そんな事は知っている、そうあなたは言うかもしれない。
だが、あなたは分かっていないのだ。
あなたが今まで求めてきた愛と、あなたが真に求める愛は違うのだ。
あなたが今まで求めていた愛は、「特別な人、ただ一人の運命の相手に愛されること」そうではないか?
人は人ゆえに、その様なロマンスを求めてしまうのだ。
だが、それはあまりにも危うい、幻想に覆われている。
あなた方は、特別な相手に出会いさえすれば、そこに特別な愛が発生すると信じている。
だが、特別な愛など存在しないのだ。
そこには、ただの男とただの女が存在するのだ。
それが、魂で結びついた相手だとしても、変わらない事実なのだ。
あなた方は、その幻想のために、特別な相手にさえ幻滅してしまうのだ。
そして、この人も違うと、捨ててしまうのだ。
あなた方は、考え違いをしている。
特別な愛は、私の愛である。
私の愛は、限りが無く、どこまでも広く深い。
だが、あなた方は人間であり、限界があるのだ。
そして、人ゆえに、あなた方の愛は、幼く未熟であるのだ。
それは、特別な相手であっても、人間ゆえの未熟さなのだ。
だが、あなた方は常に完璧な愛を相手に求め、そして失望するのだ。
それは、当然の結末である。
完璧を求めてはならないのだ。
あなた方は、人であるのだ。
人は、完璧にはなれない存在であり、その愛も同じなのだ。
あなた方が目指すべきは、完璧な人間、完璧な愛ではないのだ。
あなた方が目指すべきは、完璧ではない人間ゆえに、互いに不完全さを許し合い、不完全な愛を認め合い、その中でどう生きることが、互いを愛に近づけられるのかを探ることであり、どれだけ美しい愛の完成へと近づけられるかへの挑戦なのである。
互いを完璧な人間、完璧な愛を持つなどと、過信してはならない。
あなた方は、その不完全さゆえに美しい存在なのだ。
それはまだ成長へと向かう若葉の美しさなのだ。

あなたが求める、真の愛とは何か?
それは、未熟な人間の愛ではなく、完成された神の愛である。
何故、私の愛が必要なのか、それは、あなたの愛を強く成長させるめである。
あなたはまだ、真の愛を知らず、それは親でも、恋人でも、あなたには与えられないものである。
あなたは、知らないものを他人に与える事は出来ないのだ。
自身が経験していない事、得た事のないものを出す事は出来ない。
故に、人の愛は未熟であり続けるのだ。
だからこそ、あなた方は私の元に帰り、私の愛を知る必要があるのだ。
私の愛を知れば、あなた方はそれまでの愛がどんなものであったかを思い知るのだ。
それは、初めて自身の愛の幼さ、未熟さを思い知るのだ。
その事に気付くと、それまでの世界が一変するだろう。
自身が正しいと信じてきた事、相手を一方的に責めた事、理解し合えないと諦めた事、全てが一変するだろう。
そうだ、全てはあなた自身の愛の未熟さが原因である。
厳しい事を言うが、それはあなただけではない。
全ての人に言える事なのだ。
あなた方は、いつでも誰でも自然と愛する事が出来ると思いこんでいるが、それは、己を知らない高慢さである。
その高慢な愛が、他人を傷つけ、結果自身も傷つけるのだ。
あなた方は愛を甘く見ている。
誰もが自然と出来るもの、愛する術は既に知っていると、信じている。
だが、あなた方はひとたび愛を始めれば、傷つけ合い、理解し合えず、愛を手放す事になるのだ。
愛を続けられる人とは、どんな人であるか?
それは、自身の未熟さをよく知り、その至らなさを受け入れている人だ。
そして、そんな自分を選んでくれた相手に、常に感謝し、その相手の未熟さを自身の未熟さの様に愛することの出来る者だ。
それは、高慢さとは正反対のものであり、自身を真に理解した者にしか辿り着けない境地である。
そして、その境地に辿り着くためには、私の愛が必要なのだ。
自身の未熟さ、あるいはその高慢さ、様々な欲望に付随する醜さ。
人は自身を知れば知るほど、自身を愛せなくなるのだ。
そのあなたを真に愛するのは、神である私なのだ。
先に、私の前に全てを投げ出せと言ったのは、その醜いままのあなたを、私に見せなさいという意味だ。
その姿さえ美しいと、私はあなたを愛するのだ。
全てを曝け出す事、それは、あなたの中にエゴやプライドというものが残っていては出来ない事である。
まだ、あなたには準備出来ていないのかもしれない。
それなら、私は待つだけである。
だが、あなたが求める真の愛は、私の元にしかない。
それだけは忘れずにいなさい。
私の愛を拒み、人との愛を求め続けるのも、私は止めはしない。
だが、愛が上手くいかないからと、愛を捨て、愛に背を向けて生きることだけはしないで欲しい。
愛されないままに生きるのは、不幸である。
だが、最も不幸な事は、愛されている事に気付かないままに、この世を去る事だ。
肉体を脱ぎ捨てて初めて、自らも大きな神の愛の中に生きていた事に気付くのだ。
それは、あまりに無念ではないか?
あなたは、今、その道を辿ってはいないか?
よく、考えて欲しいのだ。
私の愛に帰り、そこから、人としての愛の道を進むのだ。
私の愛を知れば、あなた方は自身の全てが既に許されている事を知るのだ。
全てが受け入れられ、愛されていると知るのだ。
完全な愛の中で、あなたは完全な自愛を得るのだ。
それは、不完全な自身への愛である。
その不完全さゆえに、あなたはあなたの愛が必要である。
その愛なくして、自身を他人に見せる事は出来ないのだ。
愛されたいのであれば、自身を偽ってはならないのだ。
自身を偽り、偽者の自分を見せれば、その愛自体偽りにしかならないのだ。
真の愛を得たいのであれば、あなた自身を見せなさい。
その為の勇気は、あなたの自愛が与えてくれるのだ。
真のあなたを愛し、真のあなたを見せ、真の愛を与え合いなさい。
真の愛とは、あるがままの姿を見せ合い、その中に互いの美しい魂を見つけ合うことである。

かなり長くなってしまいましたが、最後まで読んで頂きありがとうございました😭
また次回も読んで頂けると嬉しいです😊
よろしくお願いします🤗

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