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『体験の哲学』感想文 ~これだからしろうとはダメだ!もっとよく見ろ!~

『全部同じじゃないですか!?』

  長らくジャンプの看板を務めた長寿漫画『こちら葛飾区亀有公園前発出所』の一項にある台詞だ。
 中川がこの台詞を発した一頁は、今やコラージュの素材として広大のインターネットを駆け巡るミームと化している。
 この言葉に、両津達はこう答える。

『ちがいますよーーっ』
『これだからしろうとはダメだ! もっとよく見ろ!』

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『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(秋元治)単行本141巻「あこがれライダーの巻」より。

 この頁は、ある種の哲学的示唆を挟んでいる。
 言語哲学者ソシュールは、「言語とは差異のシステムである」と語った。
 体験の哲学の著者、飲茶先生の過去の著作から少し引用してみよう。

「言語とは、差異のシステムである」
 ここで、差異とは「違い」という意味であるが、本書ではイメージしやすいように、より簡単な言葉で「区別」と言い方を変えてみよう。そうするとこうなる。
「言語とは、区別のシステムである」
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飲茶, 『史上最強の哲学入門』, (マガジン・マガジン, 2010), 264. 

 御免ライダーの超合金は、何故中川にとっては全て同じで、両津にとってはそれぞれ別のものなのか?

(前略)単純に、「モノがあるからそれに対応する言語が発生した」のではなく、「区別する価値があるから、その区別に対応する言語が発生した」ということである。つまり、言語とは、「存在をどのように区別したいか」という価値観に由来して発生するものであり、その価値観の違いこそが、言語体系の違いを生み出しているのである。
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飲茶, 『史上最強の哲学入門』, (マガジン・マガジン, 2010), 267.  

 御面ライダーを超合金を「何かのおもちゃ」と捉えている中川と、「4代目御面ライダーWWW 8823」と捉えている両津。彼らの間にあるのは、区別を見出すか否かの価値観の違いに他ならない。
 この一頁がコラージュの存在として人気を博しているのも、まさにその点だろう。国旗、文字、記号――御面ライダーの代わりに挿入されたネタの数々。私達はそこに、自分たちには思いもつかない価値を持った人々がいることを想起する。だからこそ面白いのだ。
 
 さて、ようやく本題に入ろう。
 飲茶先生の著作の最新作、

『体験の哲学 地上最強の人生に役立つ哲学活用法』

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 この本で、飲茶先生が幸福になる為に人生を役立てる方法と問いているのも、まさにこれだろうと私は解釈した。

 「人生は体験の束である――」

 この本、『体験の哲学』のカバーの袖には一言そう綴られている。
 続いて表紙を捲れば、インパクトの強い言葉が並ぶ。

『哲学をどう人生に役立てるのか?』

『世界には未体験が溢れている。』

『体験を意識して味わって生きよ』

『なっちゃいない。
 漫然と日常を生きるな。
 何を前にし、何をしているのかを意識しろ。』

『行為それ自体が目的となるような行為こそが幸福だ。』

 ――多くの示唆に富んだ言葉、そして繰り返し語られるのは、体験の価値だ。未体験を見つけろ。未知に挑め。飲茶先生が説くのは即ち、曖昧模糊とした私達の人生の中で、区別するに値する価値を探し出すこと。己の世界の彫琢である。

 だが、私達を取り囲む世界は、必ずしも己の価値観を明確にすることを喜んでくれるわけではない。
 教育、社会、道徳や常識、数々の常識は、私達に世界を類型的に捉え、集団に都合の良い人間であるように同調圧力を加えてくる。
 成長という言葉が、鈍麻の類義語となることさえ、往々にしてある。

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胎界主』(尾籠憲一)第二部「第十四話 生体金庫」16より。


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        『胎界主』(尾籠憲一)第二部「第十四話 生体金庫」16より。                 

『漫然と生きるなッッ! 思考を覚醒をさせろッ!』

  そこに、表紙の範馬勇次郎の如く、飲茶先生はこう大喝を放つ。
  毎日同じような日々、どこを歩いても同じような道、辺りを見回しても同じような顔な人々——そんな倦み疲れた思いで日々を過ごしている方々もいるだろう。だが、本当にそれでいいのかと、飲茶先生は問いかける。
 本書の末尾にずらりと並ぶ「体験のチェックリスト」――これは、可視化された未知の塊だ。人間、二十歳を過ぎれば大抵のことは体験済みだ。未体験のことでも、経験や知識によって類型化した推定ができてしまう。
 けれども、それは西田幾太郎の言う、純粋感覚とは程遠い――経験と知識がべったりと手垢のようにこびりついた経験だ。それを脱ぎ捨てて生の価値に触れることに意味があるのだ――飲茶先生は、体験のチェックリストを私達の眼前に差し出し、そう語りかけてくる。

  だが、本当だろうか? 確かに、蕎麦とうどんとパスタならば、一口食べ比べるだに顕著な体験の差が出るだろう。
 しかし、夜空を見上げて、かみのけ座とからす座とうみへび座を見つけた所で、そこに新鮮な感動はあるだろうか? 無論、天文マニアはそこに喜び(あるいは、もうそんなものは見飽きたという倦怠)を感じるだろう。しかし、私は以前、これらの星座を眺めた時、大した感慨は思い浮かばなかった。ならば、私の体験は無駄になってしまったのか?
 恐らく、それは否だろう。逆のケースも勿論ある。私がその差に驚きを喜びを覚えた、福岡ラーメンと久留米ラーメンと熊本ラーメンの差異に、何ら価値を感じない方も沢山いることだろう。
 これらの体験を通して、私は己の趣味嗜好――価値をより明確に自覚した。
 つまり、純粋経験を以て世界に触れることこそが、己が何に区別する価値を抱いているかを探る、最高の手段なのだろう。
 優れた仏師は、木で仏の形を容作るのではなく、木の中に埋もれている仏像を掘りだすのだと言う。
 己自身が抱いている価値観は、必ずしも己にとって自明のものではない。
 それを自覚できること――誰かに『全部同じじゃないですか!?』と問いかけられても、胸を張って『ちがいますよーーっ』と答える価値を自分の中に見つけることは幸福の一つの形である。  

 私達を取り巻く世界は、鈍化した感性で日々を過ごせば『全部同じじゃないですか!?』と泣きごとを言いたくなることもあるだろう。
 それを、
『これだからしろうとはダメだ! もっとよく見ろ!』
 と叱咤激励する言葉が、飲茶先生の声で聞こえた気がした。
 毎日の日々を、過ごす世界を、純粋な体験として触れる時、見飽きた光景は一変し、刻一刻と姿を変える、色鮮やかな世界が立ち現れるのだと。 

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