何故フィクションに、ハッピーエンドを求めるのか考えてみた
ごきげんよう!おれんじ歯車です!
小説、漫画、映画、ドラマ、演劇…等々、憂鬱な結末に、不満や憤りを感じたことはありますか…?
実は私は、胸糞、鬱と言われる作品を見ても、見なければよかったと思ったり、不満や憤りを感じたことはありませんでした。
しかし最近「アルジャーノンに花束を」という小説を読んで、初めて、不満や憤りを感じ、「読まなければよかった」という気持ちを知ることができました。
主人公ではなく、ねずみのアルジャーノンに感情移入をしてしまい、苦しくて、どうしようもなくて、嗚咽が出るほど号泣しました。
今まで思っていた、「物語なんだから仕方ない」という考え方ではなく、アルジャーノンは辛い最後ではなかったのか…?幸せを手に入れられたのか…?誰か教えてくれ…なんて思いました。
今まで、作品を読んでこんなに感傷的になったのは初めてで、私自身、とても戸惑いました。
何故、こんな気持ちになったのか。それは結論から言ってしまうと、今、私は前向きで穏やかな気持ちを持っているからです。考え方はマイナス思考のままなのに(笑
私は鬱病で、毎日消えてなくなりたいという気持ちで一日を過ごしていました。もちろん、前向きな考えを持つこともあります。やってみよう。がんばってみよう。しかし心は曇ったまま。プールで走ろうとするように、上手く前に進めないような、鈍い感覚が常に私の中にあったのです。
しかしその感覚は、ある本を読み、自分で自分を赦すことによって、動きにくかったプールからやっと出て、地面を走ることが出来る爽快感を感じることが出来るようになったのです。
鬱病の人は、自分を赦す努力が必要なのかもしれません。
今まで自分の中にあった、のどに刺さる小骨のような違和感が取れ、今この記事を書いている現在も、この晴れやかな心理状態に戸惑っている状態です。
落ち込んでいない状態に戸惑う。とても滑稽なことかもしれませんが、そう言葉にするのがしっくりきます。
何故こんな、自分の心の動きを話したかというと、いつだったかツイッターで見た文章を思い出したからです。
「自分が辛い状況にあるとき、他のもっと辛い状況を見て、自分はまだ大丈夫なんだと思える。だから、痛かったり、怖い表現の作品がないと、乗り越えられなかった」というような内容の意味のつぶやきをいくつか目にして、納得したのです。
そう、自分が辛い状況の中で、その自分より辛い目に合っている人を見て、それを自分の支えにしているのです。そして、現実にない、フィクションだからこそ、感情移入せず、娯楽として観ることが出来るのです。
怖い物語や痛々しい物語を観ても、その物語の流れや台詞を楽しんだり、考えたり、登場人物の行動を分析したり、あるいは謎が解けてすっきりしたり、客観的に物語を観ることが………客観的に物語を観ざるを得ない心理状態になっていたのかもしれません。
多くの人は、「毎日消えたくてたまらない。なぜ人はこんな辛い世の中。自殺をせずに毎日を過ごせるのだろう」なんて考えません。今、何をすべきか、今日やること、明日やること、今を、なんとなくだったり、一生懸命だったり、変則的に生きています。
そして鬱状態になっても、それは一時的なもので、何年も、何十年も続くものではありません。
「普通の心理状態」それは、とてもとても贅沢で、軽やかで、貴重で、大切なものです。
辛い時は、自分よりもっと辛い物を観て耐えるので、幸せであればあるほど、不幸な物語を、悲しく受けとめるのだと思います。
辛い状態で辛いことがあっても、心理状態が継続しているだけですが、穏やかな状態で辛いことがあれば、自分の心を辛くします。またその逆も然り。
自分の心理状態、心の動きによって、感じ方が大きく左右されるのだと、私は体感しました。
「登場人物はもっと行動すべきだ!」「あの言い方はおかしい。自分だったらこう言っている」等、登場人物を自分と重ねたり、幸せな展開を求める事そのものが、人生全体を通して、とても幸せなことなのではないかと、私は思います。
だって、自分の人生ではなく、創られた物語に…本当は無い物に、不満や憤りを感じているのですから。
以上は、私の個人的な意見なので、こんな考えもあるんだな。程度に考えてくださると嬉しいです。
物語にハッピーエンドを求めるのは、今のハッピーな状態をエンドへ導きたくないからなのかも……なんて、文章を簡単にまとめたら、こんな感じでしょうか(笑
つたない文章ですが、読んでいただき、誠にありがとうございます。皆様の心と体の健康を心より願っております。