誰のためのデザインか?【動物飼育者・本田直也さんとの対話。温熱環境から動物飼育と地域医療をディスカッションして、プライマリケア学会で棲み込みを考える話】
2024年6月7日、熊本。
暮らしの環境、特に温度や湿度といった室内気候のデザインのプロフェッショナル、ピーエス株式会社平山武久社長自身が力を入れている企画“PSclub”で、何度目かの本田直也さんとの時間。
本田直也さんは、動物飼育者。
飼育技術者として野生生物の保全を行っている。日本で初めてふ化や繁殖に成功した動物、特に“は虫類”は数多い。絶滅危惧動物や、密輸動物の保全にも多く関わっている。本田さんが専門とする「生息域外保全」とは聞き慣れない言葉。動植物の保全活動で、なんとなく私たちがイメージするのは「生息域内保全」。すなわち、彼らが生きる森や海の中で動植物を守ること。しかし、変化する環境を止められない場合や、そういう環境から連れ出されてしまった動植物を保全する必要があるとき、環境ごと造って保全を行う必要がある。これが生息域外保全。大きな意味では動物園も生息域外で生きる空間だ。本田さんの「野生生物生息域外保全センター」には二度訪れたことがある。建物の中にあるが、それぞれの部屋が、寒帯、亜寒帯、温帯、熱帯、時には標高1000mの八ヶ岳の気候を再現して、動物たちを保全している。沖縄だって宮古島だって八ヶ岳だって、本田さんの建物の中にあって、動物たちが生きている、生き繋がっている。
私と本田さんとの共通点は、札幌市立大学デザイン学部教授の齊藤雅也さんと繋がっていること。
温熱環境×建築設計デザインプロデュースを行う齊藤さんの手がけたデザインリストには「札幌市円山動物園 は虫類・両生類館」とオレンジの本拠地「ORANGE LIVING BASE」が代表作として並んでいるのがおもしろい。双方をそういう目線で訪れれば、似ている点も見つけられるはず。
医療者だって動物。生き生きと活き活きと、本人が持つ力を発揮できる環境を創る目線は、突き詰めればトカゲやカエルが本領発揮する話と似通ってくる。本田さん曰く、ヒトは最も適応力が高いガサツな生物、どんなところでも生きていける。とはいえ、環境を整えたいとも思う。
環境デザイン、という観点から繋がっている今回のセミナー“PS club”は、専門性の先っちょの話ではなく、根っこの部分について語り合い、共通点を探り合うようなおもしろい体験になった。
会場は熊本にあるピーエスの拠点、PSオランジュリ。大正8年に銀行として建てられた歴史的建造物をピーエスが室内気候をデザインし活用している建物。広い屋内が計算された温度と湿度の整えにより、入った瞬間快適さを感じることができる。元銀行だからある金庫室は、ワインセラーに変身している。一度は訪れて、自分たちの暮らしと温熱湿度環境のことを感じるきっかけにして欲しい。住居や会社に求める“建物”という物理的存在に求めるものについて考え直すきっかけになる人が多いと思う。
在宅医療と動物飼育保全。
まったく別ジャンルの話に見えるからこそ、根底を感じられる。
「飼育員が研究を始めると、とたんに飼育がうまくいかなくなる」と飼育技術者で動物保全の専門家・研究者でもある本田さんは語り始めた。
専門性を持つと全体性を失う。という話だ。
部分の総和が全体ではない。複雑さを理解しようと整理分解すればするほど、複雑さ全体を理解することはできなくなっていく。
複雑で不確実な「人の暮らし」全体を支えようとする在宅医療と、病院専門医の話がかみ合わないことがあるのに似ている。
本田さんが示した「飼育の全体論」というスライドにある
「単なる個別要素の集合体ではなく包摂しながら、異なるものへ生成していく。“ある”ものではなく、“なっていく”もの。
複雑なものを、小分けにして単純化するのではなく、複雑なまま理解する」という言葉が刺さる。
そのためにも、サイエンスとアートのバランスと、行ったり来たりする感覚が必要だと本田さんは語る。
それもますます納得できる。飼育におけるサイエンスとアート、というスライドは、複雑で不確実なものに関わるすべての専門職にとって必要な感覚だとわかる。
「飼育における」という言葉は、私は「地域医療・在宅医療における」と捉えて仲間に伝えたい。
私が地域医療の現場にやってきた医学生にしばしば話す“視点”の話、医学と医療の違いの話。
科学者としての視点は、顕微鏡を覗く研究者としてプレパラートの上に乗っている対象を観察している視点。研究者本人は観察者。医学は科学。
地域医療の現場では、観察している対象者の隣にいる“自分”にも意識を向ける必要がある。自分もプレパラートの上にのって、対象物に影響を与えながら存在している感覚を忘れちゃいけない。
なんて話をいつもしているわけだが、本田さんはそれを「飼育技術者の視点、二人称と三人称」という言葉で表現してくれていて、こちらも納得するしかない。
二人称はアートの視点、三人称はサイエンスの視点、という言い方だ。
三人称の視点、すなわちサイエンスの視点では、動物の立場になっているわけではない。
客観的で他者視点である。客観的指標や先行研究を元に対象物を観察する視点。
二人称の視点、アートの視点では、その動物固有の環世界を理解する必要があり、主観的すなわち動物視点であり、動物の立場からの見立てが必要。
そうすると環境やそれを動物がどう感じているのかを感じていくことになる。
飼育技術者はこの両方の視点が必要というわけだ。
熟練者・達人に求められる観察眼とは。という本田さんの話は、
技術的職人技を極めて「神の手」と呼ばれる外科医の世界とは異なる、地域医療と呼ばれる暮らしに関わる医師として「省察的実践家」というプロフェッショナルモードがあるのだと20年以上前に藤沼康樹先生に教えてもらったことで救われた自分の存在と重なる。
なんらかの刺激を受けた対象物(本田さんなら動物、私たちならヒト?地域住民?)が知覚しそれによって行動を起こす。
その「刺激」「知覚」「行動」を観察記録評価するのは初心者・中上級者、だと本田さんは言う。
熟達者・達人に求められる観察眼とは、その「知覚」「行動」が起こっている「環境」との相互作用や、その生き物の内部で起きている「認知、心・感情」を観察し理解することだという。
実際の暮らしの中で起こる、超複雑で一見理解不能な厄介な難問に出会うと「それは私の範疇ではない」と諦めてしまう「地域という複雑で不確実な現場を専門にしたいけれど、知識と学びと科学的アプローチで“専門医”という称号をもらったばっかりに、現場の熟練者・達人になるための体験という学びを怖がり見ないフリをしようとしてしまう若者」に出会うことが多くなった気がするのは、私が単に歳を取ったからだろうか。
このセミナーの翌日から静岡県浜松で開催されているプライマリケア連合学会という集まりに参加する予定があるのも何かの縁。
複雑なものを「学び修める」ために整理した世界から、改めて複雑怪奇なものを扱いたい欲求と価値に見舞われた人たちに出会い直したいと思う。
動物飼育の世界には「棲み込み」という熟達者への道があるという。
例えばチンパンジーの暮らす環境の中で、チンパンジーと一緒に暮らし寝食を共にしながら対象にどっぷり浸かる、そんな方法らしい、なるほど。
「対象の立場になりきって、内面から理解する。対象にどっぷりと浸かる。その分野の徹底的な専門家になると同時に、他の領域に目を拡げて全体像を見る。」という、マイケル・ポランニーの「暗黙知の次元」を引用して語ってくれた。同時に「なりきりモノマネ芸人」がなぜどんどんホンモノに似ていくのか、を併せて話すのに、私も聴衆も笑っていたが、本田さんの眼は笑っていなかった。そういうことなのだ。
地域医療で暮らす人々を理解するために行える「棲み込み」とはどんなものだろうか。などと考えていた。
寝たり食べたりの話ではない。少なくとも白衣を着て地域を回ることではない。
医療者としての鎧はちゃっかり着ながら、好きなことを語って友だちのようになることでもなさそうだ。
笑ったり困ったり投げ出したり、そんな時間や途方に暮れて見つめる視線を共有したときに、それが達成されるのかもしれない。
翌日はプライマリケア連合学会に参加。こちらはヒトのことを話す集まり。
私が尊敬している若者の筆頭、彼女の人生の山や谷やを自分のことのように悩んだこともあるドクターと数年ぶりにその学会の帰り道で会った。
彼女は私といた頃や独立した今の思いや悩みを嬉しそうに語ってくれる。
そうなんだ、あなたが成し遂げたことを聞きたいなんて思わない、悩みや想いや迷いやワクワクや困りごとや唸りごとを聞きたいのだ。
師匠、報告します。じゃなくって、困ってるんですよ、困ってるんだよ、一緒だねー、って思い合いたい。
彼女は明らかに、地域に棲み込んでいる。だから悩みながら在ること自体で地域を支えている。
聞き心地の良い、責任も覚悟も薄い地域活動の自慢話はいくら聞いても薄っぺらい。彼女の悩みながら在る姿を再確認できて良かった。
誰のためのデザインか? 考え続けるのだ。